二次加害をするのはこんな人
さんざんと二次被害三次被害にあった者としては、考えざるを得なかったこと。
「どうしてそういうことを言うのだろう」
「どうしてそういう態度をするのだろう」と。
(ひどいPTSDなどさまざまな身体的精神的症状で悩まされている上に、
自責感と罪悪感でいっぱいで苦しくて辛くてたまらなかったのだが、
それにおいうちをかけるのが、二次加害三次加害をする人たちの心無い言動だった。)
結局、人は差別したがる生き物なのだ、と当時の私は悲しい結論を出した。
異質なものを排除したがるのだ、と。
理由を無理にでも探し出し、レッテルを貼ることで、「あの人はこうこうだからこうなった」とする。
そしてその裏には「自分は大丈夫」と安心したい気持ちが大きく潜んでいるのだろう。
弱っているときには、その弱っている状態をすら理由にされることもある。
だが、ダメージを受けると弱った状態になるのは当たり前のことではないだろうか。
逆に、二次加害をしない人というのは、
いまは一時的に弱っているだけで、自分と対等の存在なのだ、強さも尊厳も持っている一人の人間なのだ、
ということを思っている人だ。
そういう人は、多様な価値観を認められる人でもあると思う。
これは経験から強く言えることだ。
では、以前とりあげさせてもらった本から、そのあたりについて抜粋させていただこう。
ぜひ、多くの人に知ってもらいたいと思っている。
「傷ついたあなたへ わたしがわたしを大切にするということ」p78〜80より(強調は引用者)二次被害にあったらどうしたらいいの? ― ランキングをはずして楽になろう
世の中には見えないランキングシステムがあります。これを取り入れている“ランキングさん”は自分がランキングでどの辺に位置しているかが気になります。実際にランキング表があるわけではなく、とてもわかりにくいものです。ランキングさんは他者の状態と自分の状態を比較することによって、自分のランキングを定めようとします。自分の価値観で生きているというよりランキングシステムにとらわれているような状態です。 ランキングシステムを取り入れていない人は他者と自分を比較して一喜一憂することはありません。ランキングではなく、違いとしてとらえるからです。どちらが上か下かではなく、こんな人もいればあんな人もいる、といったように考えるのです。相手の価値観も自分の価値観も大切にできる生き方です。
二次被害から自分を守る
ランキングにこだわっている人に自分の経験したDVやトラウマについて話をすると、ランキングのネタにされることがあります。それは「シンパシー(同情)」という形で表されます。
これとは別に、「シンパシー」に似ていますが全く違う「エンパシー(共感)」もあります。このふたつを比べてみましょう。
(※引用者註
本書には、「シンパシーさん」が、当事者の方が座っている椅子よりも、
ずっと高い椅子の上から見下ろしている話している様子のイラストが描いてあります。
対して、「エンパシーさん」は、当事者の方と同じ椅子の高さで、同じ目線で話しているイラストです。)
シンパシー(同情) エンパシー(共感)
・☆さんを「不幸」とひとくくりにする事で ・大切なひとりの人がいま困っている
「不幸」を自分の日常から切り離す と考える
・☆さんを上から見る ・☆さんと同じ目線で考える
・☆さんを「不幸」と感じる事で、 ・被害=不幸との発想にならない
自分が不幸でないと安心できる
・☆さんとは上下関係が形成され ・☆さんとはフラットな関係になり
☆さんには自分の不幸を恥じる 信頼関係がうまれる
気持ちがうまれる(二次加害)
つまりシンパシーを感じる“ランキングさん”は、相手を不幸と認定することで自分のランキングがその人よりも上であると思うのです。その多くは無意識に行われ、“ランキングさん”はよいことをしている気分になっているかもしれません。「かわいそうに・・・何かわたしにできることがあったら言ってね」とやさしい言葉をかけたりします。「あんなにやさしい人なのに、なんでいつも会ったあとは気分が落ち込むのかしら」と混乱するかもしれません。
一方、エンパシーを感じる人は、一人の大切な人が困っていると考えます。相手を下にみることはありません。
「自分とは違う」ということで差別するというのは、つまり、ここに書いてあるように、
「自分は上」「相手は下」と、位置づけを決めたがることだ。
これが「ランキング思考」という言葉で表されている。
そして、性に関することは、特にジェンダーギャップが激しい。
性暴力は、性差別と密接すぎるほど密接に絡み合っている。
なのでひどい二次加害が相次ぐ。警察でも。司法の場においても。
そして、二次加害だということさえ、わからない人が多い。
それだけ、性差別をまるで空気のように当たり前のように存在するものとしている社会なのだ。
ジェンダーは刷り込まれる。もちろん私も例外ではない。
ランキングとは、すなわち、社会から押し付けられる「男らしさ」「女らしさ」によって決定付けられる。
そのことを上手に表現されているのが、次のブログ。
■性別役割ではなく、人として強くやさしく■
すべてを肯定する「ありのまま」(no.237)
「ありのまま」という言葉を、最近よく見聞きします。「自分らしさ」という言葉に続いて、講座のタイトルにもよく使われるようになりました。にもかかわらず、「『ありのまま』の自分というものがわかりません」という、質問を受けることがよくあります。もしかしたら、上のような表現が混乱のもとになっているのかもしれません。この表現では、焦ることは「ありのまま」の状態ではないという意味にもなり、焦る自分を否定するニュアンスになってしまいます。
誤解なく「ありのまま」を伝えるために、表現を変えてみました。
*あせっても のんびりしても ありのまま*
講座では悩んでいるという状態が、悩みになっている人にもよく出会います。以前、フェミニストカウンセラーの和田洋子さんの電話相談員になるための講座の中で、辛いことに目をそらさずに悩むということは「力」であると学びました。大事なことは悩みぬくこと、そのことに寄り添うことだと話されました。
焦るときも、悩めるときも、頑張り過ぎるときも、いかなる状態であってもそれが自分の「ありのまま」だということです。
「ありのまま」に目をそむけずに受け入れ、誰のせいにもせず、主体的に自己を受け入れることによって人生を自分の手に取り戻す。
そうすれば、おのずと道は開けていく。自分の存在意義を信じぬく強さと、他者の存在意義を信じぬくやさしさ、その力が人権やエンパワメントという概念とつながっているのだと思います。
画一化された社会的な性のありようとしてのジェンダーは、「男の価値は○○」「女の価値は○○」といった性別による価値付けそのものです。価値を競うわけですから、勝ち負けといった格差を生み出します。個の「ありのまま」の否定は、時として自尊感情に大きな影響を与えます。自尊感情が育たなくなるだけでなく、それが負け組という社会評価になるわけですから、さらに追い込まれ存在意義を見失い、世の中への恨みを抱えることによって犯罪の加害者になることだってあるのです。
一人ひとりの「ありのまま」が認められるということは、多様性が認められ、負け組をつくらないということです。
他者の幸せを踏みにじらない限り、一人ひとりの自己決定が尊重されるということです。
一人ひとりが大切にされ、活かされる国であってほしいと思います。(略)
二次加害を受けると全ての人が、犯罪の加害者になることもある、ということではないので、誤読されないことを願います。
それほど社会から追いつめられ孤独を深める、辛い状態になるのだ、という意味ではないでしょうか。
<参考>
■東京強姦救援センター■
・センターニュースNO47「女役割にごまかされない 」
最後に。
■フランチェス子の日記■
実録・セカンドレイプ/性犯罪が起こる要因
など、数々の勇気づけられるエントリを書かれたフランチェス子様に、心からの敬意を。
一連のやりとりで、さまざまなことがわかりましたし、なにより励まされました。