フラッシュバック

※フラッシュバックするかもしれない内容が含まれています。


一言でフラッシュバックといっても、被害の状況がリアルに再現されるようなものもあれば、
そのときの苦しい感情がわきあがる感情的フラッシュバック(この言葉は私は最近知った)、というものもある。


わたし自身のことにかぎっていえば、
フラッシュバックの内容も頻度も、さらにはそれによるダメージの大きさも、
被害からどのくらい経っているのかということと、
どういう状態なのか、状態がいいか悪いか、などでかなり違ってくるのだけれど。



わたし自身は加害者に付きまとわれている間、必然的に加害者のことをある程度知ることになってしまい。
さらには加害者親族に脅されたりなどする中で、そして裁判の中で、さらには裁判の後で。


そんなの知りたくねーよ、と言いたいくらい、むだに加害者についての情報を知る羽目になってしまった。



そのせいか、加害者を思い出させるようなきっかけというものが、やたらめったら多い。
ふつうに生活していても、なんでこんなに、加害者のことを思い出させるようなものばかりなのだ、と、気が狂いそうになっていた。


二次加害者についてもそうだけれど、やはり加害者本人のことを思い出させるようなきっかけは、相当にきつい。
あたりまえだ、危害を加えた張本人なのだから。


被害に関連すること。苦しいこと。つらいこと。
それに対する意味づけを変える。
それはとても重要なことだ。


たとえば、私は被害に遭う直前の状態、
お金をおろそうかどうか迷ったあげく、「明日でいいや」と思い、疲れて帰宅途中だったせいか。
お財布の中にお金が少ない、という状態がものすごく怖い。


でも体調が悪いと、なんと銀行にさえ行けなくなってしまうので、よけいに悪循環。
どうしようもないときは、コンビニでおろす。
しかも、夜中に気持ち悪くなっておろしたり、早朝おろしたり。
翌日を待つというのが怖くてできなかったりする。


自分のお金ならともかく、パートナーが苦労して稼いできたお金を、よけいな手数料をつけて無意味に引き出すということにものすごく悪いなと思い、落ち込み、落ち込む自分にさらに落ち込み・・・という悪循環に陥る。


こういうことをカウンセラーに話すと、超真剣な顔で、
「でも、いざというときのために、お金は必要なんだから」
と言われた。


えっ、と戸惑う私に、
たとえば夜中に具合が悪くなるかもしれないし、急な誰かの不幸で駆けつけないと行けないときもあるかもしれない、というようなことを言われた。


よく咀嚼できないまま、その超真剣な勢いで思わず頷いてしまったのだが。
ああ、彼女は意味づけを変えようとしてくれたのかもしれない、と思う。
他にもこういうことはわんさかある。


それが自分の中で定着するかどうかは別として、誰か信頼できる相手、好きな相手(性的な意味ではなく精神的な意味で)が、自分の為にしてくれたこと、言ってくれたこと、もしくはそれに関連すること、そういったことの象徴となるようなもの。
そういうものが自分にとってのお守りとなって、心が穏やかになるときもある。



ふだんはやりすごせていても、ほんとうにひどいフラッシュバックというのは、それさえもできない。



フラッシュバックというのは、ほんとうに制御不能だ。
ひたすら、今は安全、今は大丈夫、と言い聞かせても、だめなものはだめだ。


被害に遭ったときというのは (私はつきまとわれていた間も含むけれど、これはむしろ精神的暴力、モラハラに近い)
自分の体だけでなく心も思い通りにされてしまっているということだ。
嫌なのに、自分が大切に思う人としか本来したくないことをされてしまう。
大切にまで思えなくても、いいと思うときに、この人ならいい、と思う人とすることで、それを決めるのも全部本来自分にあるはずなのに、そういう感覚自体もなにもかも、無視され支配されてしまう。
そこにあるのは、相手だけの思い。
傷つけ、そのことで強さを確認し優位にたちたいという、人間のクズの身勝手な思い。
(何が愛していた、だ、と吐き気がする)



性行為についての意味づけは、とても個人的個別的なものだと思う。
たとえ愛のない行為でも、むなしさを感じても、この人とならばいい、と思うこととは全く違う。そして、そのむなしさは、後になって徐々に自分を蝕むので ―(これも私にとっては、という意味だけれど。それは、本当に愛する相手とそういうことをすることの意味を自分なりに見つけたからでもあると思う)
―傷つくからやめるという選択肢もあるし、そういうことを学ぶのも、全部自分で行動した結果だからよいのだろう。
と、思う。



えーと。


何が言いたいかわからなくなってきたけれど、
被害自体の記憶そのものはない、というかイメージのようなものでしかない。今は、だけれど(直後は違った)。
それは脳の中のどこかに押し込められていて、そのふたがあきそうになると、ほんとうに苦しくなる。
記憶がないのならつらくないなんて、大間違いで、記憶にさえ残せないほど、つらすぎる記憶だということだ。
(PTSDは海馬を萎縮させるというのは真実だと思う)


そして、その苦しい記憶をゆさぶり、制御不能になりかけたり、実際に制御不能になることで、ばらばらになった自分というものを改めて痛感し、さらにつらくなる。


そのきっかけとなるようなものが、加害者を想起させるものであったりすると、さらに辛い。
私の場合は、警察も検察も裁判も何もかもきつくて、さらには主要な二次加害者三次加害者を想起させるものも、
全て含めると多すぎて、全く日常生活を送るなんて困難なほどだった。
たとえばパトカーのサイレンがなったり、テレビや映画に法廷の映像が出てくるともう駄目だった。
あげるときりがないくらい、だめなものが多すぎた。
つらい記憶をゆさぶるきっかけとなるもの、トリガーとなるものが多すぎた。


被害そのもののイメージと、狭い取調べ室で屈辱と恐怖を感じていたせいか、いつのまにか暗所恐怖症、閉所恐怖症になっていたし、これは治りそうにもない。



私にとっては、加害者の行動パターンや性格を思い起こさせるようなものが、一番きつい。
そういう人がこちらを性的な対象とした行動をとることで、吐きそうなくらいダメージを受ける。


なぜ、ただ見られたり話しかけられたりするだけでこんなに恐怖なのだろうと思うけれど、
それが、今回、加害者に似た人物ということで、ものすごいダメージを受けてしまったので、
そうか、加害者を思い起こさせるから駄目なのだ、と改めてわかった。


これって でも、避けようがないから、つらい。



EMDRを受けるかどうか迷ったとき、
日常生活に影響がどのくらいあるかで考えたら、というアドバイスをされたけれど。


こんなにもふらふらするくらいなら、やっぱり考えた方がいいのかもしれない。



ただ、EMDRを実施する人によって効果はかなり違うらしいので、慎重に選んだ方がいいということ。
誰か信頼できる人に付き添ってほしいけれど、私の場合、それが難しいので、一人で受けに行くのは、ためらいが残る。



結局は、ダメージのある自分と、どう付き合っていくか、ということなので、
周囲がああしろこうしろ言うことで、よけいに、コントロール、というより自己制御能力を奪われ続けるような気がして、よけいにつらくなる。
ダメージを受けているときは、自分がどういう状態なのか、どういう気持ちなのかさえ、わからない。
自分の感情を感じ取って言葉にすることができないほどダメージを受けているのだから。


ただ、責めずに、あれこれ判断したり評価したりせずに、
そして自分のせいで動揺したりしない(これでよけいに自責感と罪悪感が強まり、孤独感が深まるし軋轢がうまれる)、
安心して思いを受けとめてくれる相手、というのが一番ありがたい。



いつまでも過去のことにこだわりすぎる、と言われたりすると、ほんとうに悲しくなる。
こだわりたくてこだわっているのではないのだ。


今ならわかるけれど、
そういうことを言ってくる相手は、苦しんでいるのを見ると自分が動揺する、自分は今苦しみたくないから見聞きさせないで、と本当は思っているのだろう。
自分の気持ちとか弱さに向き合わないで、
「ポジティブにいこーぜ!!」と単純極まりないことを言わないでほしい。
こういうことを言う人に限って、自分がいざそういう目に遭うと、弱いのだと思う。


つくづく、知らないふりをしているだけの間違った世の中の常識を押し付けられると、より何かにのみこまれそうな感覚が強まり、支配されているという気持ちになり苦しくなる。
制御不能ということを感じとらないと、まず立て直せない。
制御不能だということくらい、言わせてくれ、言うことくらい制御させてくれ、と思ってしまう。



このままではやっていけない、そう思って心配しているつもりで、自分に火の粉がかかってくるのを嫌がっているだけかもしれない。そうかもしれないけれど、今それをいったところでどうにもならないのだ。


まあ人間みんな弱いので(私を含め)完ぺきな人なんていないのだけれど、
自分の気持ちを押し付けないで、周囲の人も一度、自分ととことんまでじっくり向き合ってほしいと、
さんざん周囲の無理解により口をつぐまされ、余計にそれで傷が深くなった私などは思ってしまうのだ。


そういう習慣が普段ないので(内省的な人は蔑まれる傾向があるマッチョ社会)、よけいに断絶は深まるのだろう。
ふだんから自分と向き合う習慣を誰もが身につけていれば、もうちょっと何かが変わる気がする。


と、だらだら書いてみました。