集団のなかで起きる暴力

たとえばセクハラやパワハラモラハラなどは、ほとんど誰もが経験したり見聞きしているのではないだろうか。


ただ目の前でおきていないことを人から聞いた場合、内容が信じられないほどひどい場合、
どうしてそれほどひどいことがどうしておきるのか?大げさに言っているのではないのか?
と思ったことがある人は多いのではないだろうか。



性暴力も、DVも、虐待も、戦慄するほどの内容ばかりだ。
正常な感覚を持っている人からすると、どうしてそんなにひどいことができるのだ?
歯止めとなるものはなかったのかと疑問を感じるのが当然の内容。



特に複数の人間が関わっている中で起きる暴力、黙殺される暴力には、そんなにも異常な人が、偶然、集まっているのはありえないのではないかと疑問を抱かれる。
そのために、はては被害者にこそ問題があるのだと思われたりもする。


それこそが加害者の狙っていることなのだ。
加害者の思うツボとならないよう、暴力の構造を多くの人に知ってほしいと思う。




 自己愛的な人間―すなわち、第1章で述べたモラル・ハラスメントの加害者になるような人間がある集団に入ってくると、その人間は集団のメンバーを惹きつけ、従順な人々から順番に自分のまわりに集めていく。そこでもし誰かがそれを拒否すると、拒否した人間は身代わりの犠牲者(スケープゴート)にされて、集団から排除される。こうして、そのスケープゴートになった人間を攻撃したり、その悪口を言ったりする形で、その集団のなかにはひとつの社会関係ができあがる。この時、集団は、他人を尊重することを知らず、平気で人を傷つけることができるモラル・ハラスメントの加害者に影響されて、そのやり方に従うことになる。といっても、メンバーのひとりひとりはそれほど道徳的な感覚を失ったわけではない。だが、ためらうことを知らない人間のもとで、批判の能力を失ってしまうのだ。

 こうした<権威への服従>について研究したアメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムは次のような方法である実験を行なった。《実験室に被験者を呼び、実験者の指示によって良心の痛みを感じるような行為をしてもらう。それはごく軽度のものから始まって、だんだん重度のものに変わっていく。実験の目的は、実験者の指示に対して、被験者がそんなことをするのは嫌だと言わずにどの行為までをおこなうか、それを知ることである》。この実験の結果、ミルグラムは次のような結論を出した。《このことからすれば、ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになるだろう》。このことはクリストフ・ドゥジュールによっても確認された。ドウジュールは<社会のなかで悪は一般化される>と指摘している。実際、世のなかには自分の心の平衡を保つために、上からの権威を必要とする人々がいて、そういった人々は上からの指示があれば悪いことでも平気で行なうようになる。モラル・ハラスメントの加害者はそういった人々の従順さを利用して、被害者に苦しみを与えていくのである。

 企業におけるモラル・ハラスメントの加害者―すなわち強度に自己愛的な人間の目的は、権力を手に入れて、どんな方法を使ってもそれを維持することであり、また、それによって自分の能力の欠如を覆い隠すことである。そのためには出世の妨げになる人間や才能にあふれている人間を取り除く必要がある。自分よりも弱い者を攻撃して満足するのではない。相手が身を守ることができなくなるように、邪魔になる人間の力を弱めていくのだ。そこが権力の乱用の場合とはちがうところである。

 標的にされた人間は恐怖から加害者に従うようになる。いや、服従するようになることさえある。また、同僚たちもやはり恐怖から見てみないふりをして、加害者の攻撃に口を差しはさもうとしない。これは<各人が己のために、神は万人のために>(それぞれが自分のことだけ考えて、他人のことは神さまに任せておけ)という個人主義が支配する世界だ。加害者が上司であった場合、まわりの人々も被害者に同情を示したら、今度は自分が非難されて解雇の対象になるのではないかと恐れて、行動を起こそうとはしなくなるのだ。会社では波風を立ててはいけない。ただ会社のことを考え、ほかの人とはあまりちがったところを見せてはいけないのである。





「モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない」p131〜132  ※強調は引用者

 



「ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになる」というのは、たとえば戦争などでもよく見られることだ。
非行グループや暴力団など、いろいろな犯罪集団のなかでもまさに同じことがおこっている。


日常生活のなかでも、実はたくさん起きている。
セクハラも、単なる性的な嫌がらせだけでなく、精神的にじわじわと追い詰め、被害者に自分がおかしいのかと思わせたり、より自分を責める方向に持っていく雰囲気や空気というものが存在することが多い。
皆、忍耐しているのだというのもある意味では「正しい」現実ではあるけれど。


感覚を麻痺させ耐えることができないほどひどい暴力もある。
心ある人はその中に最後まで正常心を保つことはできず去り、残って偉くなるのは、まさにモラハラ加害者のような人物。
そういう組織ばかりとなってしまう。
社会全体がモラハラ加害者を養成しはびこらせるようなシステムとなってしまっている。



自分が悪いのではなかったのだ、自分に原因があったわけではなかったのだ、と思えるのは、
横のつながりが持て情報を共有することから始まるのだと思う。
だけれどそれは、あまりにひどい被害に遭った、多くの被害者が出た状況になったということでもあるのだ。


長いこと時間が経ち、変化したこともある。
小さいレベルでは、おかしいと思う人が他にもいたのだと少し風向きが変わったのを感じる。
報いを受けている、という因果応報ということよりも、
もっと現実的に、情報が蓄積され共有されていったことが大きいと思う。
情報を持つことは武器になる。




それにしても、
肝心なところが一番おかしいんだよなぁとつくづく感じてため息をついてしまう。
慎重に取り扱わなくてはいけないことが毎日の日常となることで、感覚鈍麻がおきる。
感覚鈍麻はおそろしい。
日々の業務に追われる中で、人を人として扱えなくなっているのではないだろうか。


それは警察にも思うこと。
検察にも。裁判官にも。
報道にも。


言ってもなかなか信じてもらえないほど、ひどい状況だ。
もっと自らの仕事に責任を感じてほしいと切に思う。



こちらができることは、情報を集め発信し、多くの人に共有してもらうこと。
息切れしないよう、自分を守りいたわりながら。



モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられないモラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
(1999/12)
マリー=フランス イルゴイエンヌ

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