大切なのは、声をあげていくこと。あげつづけていくこと。


私のブログは、被害直後の方が、どのくらいかどうかわからないけれど、見ていらっしゃる可能性がある。
でも、直後の方には合わないとも思う。私は被害を受けてから十数年たっているのだから。
自分の被害直後のことを思っても、その後数年間のことを思っても、そう感じる。


最初、このブログをたちあげたときは、被害者のプライバシーを守らない、性犯罪被害者の実名を、裁判員候補者全員に知らせるということで驚いて、それでたちあげた。情報提供できればいいなという意味もあった。
その後、いろいろな人が問題認識してくれて、大きな流れとなって。
私は地方に住んでいることもあって、その中核には今あまり関われないので、細々とできることをやっている。
地方だから何もできないわけではない。大ごとにしないで、個人として話をしやすくもある。根気は要るけれど。

いろんな人の意見があって、いろんな人の立場もあって、私一人で勝手なことはできない。ただ知っていること、意見を求められたら言うけれど。
何しろ政治は全く性暴力に見向きもしない。利権がないと動かない。
だから世論を高めるしかない。痛感した。


また、ブログをはじめて、こんなにも世間は意識が低いのかと愕然とした。
もう慣れたけれど。あまりにおかしい。おかしな文化の中に私たちは生きている。
だからなんとかしなければいけないと思った。
世論を底上げしなければ、なんとかしろという外圧を作らないと、政治は動かないから。


そういうこともつくづく感じた。


それに、被害者がひとりで苦しんでいるというのも、前にもまして、実感を持って、よくわかった。
適切な支援を受けるのは難しい。


結局は、司法を変えないと変わらない。
でも、司法の限界、司法のおかしさを知っている人ほど、出てこれない。


傷つけられた回数が多いほど、記録に残っているほど、復讐される恐れ、また特定され二次被害三次被害を受ける恐れがある人ほど、出てこれない。
理解されにくい状況ほど。何か特殊な事情を抱えている人ほど。簡単に特定されるおそれがある人ほど、出てこれない。


どちらがきついとかそういう、傷の比べあいではない。
本人にとっては苦しいものは苦しい。他人がジャッジすることではない。



私は被害者の中でもずっと孤独だった。
特定されて、その後とても怖い思いをした。さらなる犯罪や性犯罪のターゲットにまでされた。
ようやく安心して暮らしているときも、被害事実を周囲に知らせると言われて脅迫もされた。
でもそういったことをした人たちは野放しだ。被害者は嘘つき扱いされる。
ひどいことをしてきた人の肩書き、職業。そういったもの「だけ」で被害者の言うことはまともに信じてもらえない。


ただ安心して暮らしたいだけだ。人間として扱って欲しいだけだ。
おかしいことはおかしいと言いたい。それを認めて欲しい。
おかしさを、間違いを指摘した方に、被害を受けた方に、黙らせ、我慢させるのは間違っている。


権利を主張することをよしとしない、我慢を美徳とする日本の文化は、強い者にしか都合のいい社会でしかない。



埋もれてる声は沢山ある。
私自身、自分の言うことを信じてもらえなかったらどうしようとおそるおそる話し始めた。
でも、自分もそうだった、と、男女関係なくそういう声がでてきた。私などよりきつい思いをした人は沢山いる。
自分の経験の中でも、傷つきが深いほど語れない。まだまだ、もっと、語れないほどの思いはある。



私の場合は、直接被害よりも、二次被害三次被害のほうがきつかった。
セクハラまがいの性的なセカンドレイプとかそういうことではない。
それもあるけれど、もっとちがう、制度的なことだ。
こうしたことは報道されないし被害者しか知らない現実だ。
あまりに加害者は守られている。被害者意識をこじらせていると言われようがなんといわれようが、事実だ。
自分だけの問題ではない。個人的な恨みと思っているのなら大間違いだ。
もちろん未消化な思いはある。誰でもそうだろう。自分の問題を抱えていない人などいない。


性犯罪は社会的犯罪だ。次々と被害者を出していくだけだ。
今まで常識だと思っていたことに、疑いを持って欲しい。本当にそのままでいいのかと。
実際に、今は当たり前に使われている遮蔽やビデオリンクも、違憲ではないかとされ、特例でノック事件で使われてから、今のように定着するまで6年以上もかかった。細かい点では他にも沢山ある。


他国と比べても、日本の刑事訴訟システムのおかしさは際立っている。まさに絶望的といえる。
加害者にとってだけでなく被害者にとっても拷問の制度だ。
いくら世界から指摘されても無視している。報道さえされない。
被害者の人権なんて何も考えられていない。
いくら司法が被害者のためにあるのではなくても、社会の治安を維持する法治国家であれば、もっと変わらなくてはいけないはずだ。


それに裁判のことは、私の罪だと思っているところもあり、語ろうにもなかなか語れない。思い出したくないと脳が拒否反応を示す。
まだ心の準備ができていない。まだその時期ではない。
敵視され、信頼できない相手には余計に、心の中の深い部分まで、深い傷つきまで、話したくない。


訴えて裁判をして、こんな社会に住んでいたということが戦慄だった。こんなにも悪意にみちた、まちがっている社会だということを、知らずにいた。
そして自分はまだましな方だったと知ったとき、もっと絶望した。目の奥がちかちかするような激しい怒りにおそわれた。
まだ自分だけが、運悪くというほうがましだった。真実はあまりに絶望的だ。


声をあげられるという条件もある。たとえば私が今働いていたらできないだろう。もっと症状が悪かったときにはできなかっただろう。
今でも書いていて頭痛吐き気がすることも多い。わかりやすい身体症状だけでなく、ひどいフラッシュバック、過覚醒、うつ、といった症状におちいることも多い。


でも、声をあげていくことで、なんとか救われることもある。そうじゃない、そうじゃないんだ、と、言うこと。それを理解してくれる人がいること。聞こうとしてくれる人がいること。
それだけで救われる。
そういうのを見て、思い切って、自分の経験を話してくれる人もいる。


これも、今まで声をあげてくれた人がいたからできたこと。
その道すじを受け継いでいかなくてはいけない。あまり「〜べき」という言葉は使いたくないけど、ここではあえて使う。


今まで声をあげてくれていた人たちを否定なんてしていない。感謝している。
ただ、私はこうだった、その現状は本当はこうだよ、というのは、なかなか出てこない。
自分だけがそうだったのかもしれないと思うし、自分が悪かったのだから仕方がないとも思うからだ。
なによりもう傷つきたくないという思いが強い。
理解されにくい、信じてもらえないようなことほど、出てこない。多くの人に傷つけられた人ほど沈黙する。


私は声をあげられるまで、十数年かかった。それでもまだ、傷つきが深い部分ほど語れない。
今まさに、とても重い後遺症で苦しんでいる人は、とても声をあげられる状況にない。
でも、その人たちが、話したいと思ったときに、否定されたり信じてもらえない、はては黙れという圧力をかけられるのはあんまりだ。
話すことは、重荷を離すことでもあるのだから。よけいに追いつめないでほしいと思う。


もう私は、仲間たちに死んで欲しくない。
それが、私の罪の意識、あとすこしだったのに、私の頑張りがたりなくて実刑にできなくて、多くの被害者を出した、自殺する人もいた。犯行手口はより巧妙になり、その記録は今もネットに出回っている、という罪の意識だけではない。
それも大きくて、そこを考えざるを得ないことをしつこく言われると、いくら私にはどうしようもなかったと言われても、自分でもそう思っても、心がついていかない。とても苦しい。辛い。


なんでこんな社会なんだろうと思う。
絶望する。
でも、それに逃げていて、目を背けていた。何年間も。かかわりを持ちたくなかった。自分のことだけで手一杯だったから。
でも何も変わらなかった。何も分かっていない。何も知ろうとしない。
被害者がどういうことで困るのか、どういうことをやめてほしいのか、どういうことを必要としているのか、何も知られていない。


お願いだから話を聞いて。こういうことが実際におきているということを知って。
目を背けないで。耳をふさがないで。真実を知って。

そして考えて欲しい。
力を貸して欲しい。
そういう思いで今こうして書いている。


なかば絶望しながら。ときには折れそうになりながら。
自分の身も守らなくてはと思いながら。もういっそ全てをぶちまけようかとさえ思うときもある。



とにかく声をあげていくことが大切だ。
そしてつながっていくこと、励ましあい支えあっていくことが大切だと思うから。



黙らせようとするのはやめてほしい。
たとえそのつもりはなくても。それは結局、加害者に都合のいい社会を維持するだけだ。




「沈黙をやぶって 子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本」という本がある。
日本で初めて、性暴力被害当事者たちの声をあつめ、出版した本だ。出版は1992年だそうだ。
それから20年。いったいなにが変わっただろう?すこしずつ変わってはいるけれど、根本的なところではちっとも変わらない。
被害者を黙らせ、加害者に都合のいい社会というのは、ちっとも変わっていない。



http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/6704n.html から一部引用 (強調は引用者)


性暴力が他の暴力形態と異なる特性のひとつは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙。そして被害者が語れない環境をつくり出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。
 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬にかまれたと思って忘れなさい」とたいしたことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう。
 だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っているかぎり加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じつづけることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです


沈黙をやぶって―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言 心を癒す教本(ヒーリングマニュアル)沈黙をやぶって―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言 心を癒す教本(ヒーリングマニュアル)
(1992/11)
森田 ゆり

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