自分のことを語ることのむずかしさ

ときどき、自分を隠して生きているようで疲れてしまう。
ぼかしたりフェイクをいれたりせず、自分にあったこと、自分がそのときどういう状態だったか、
どうしてそういう対応をせざるをえなかったのか、
今にして思うとこういうことだったのだ、と、「私のストーリー』を紡ぎたいときもある。
書きたい、誰かに聞いてほしい、と思うこともあるけれど(主にセラピー目的)、

なにより特定されるのが怖くて書けない。
加害者や加害者親族、二次というより三次加害者が怖い。


それもあるし、当時の私におきたことを、今の私が語ることによって、
もちろん被害者ではなく加害者に暴力の責任はあるのだけれど、
完全にそうは思うことができていない時期というのが結構私は長かったので、今そういう思いがある他の被害者の方にどう思われるか、強い不安がわきおこり、書けない、となる。
傷つけるつもりはなくても、聞いたら傷ついたり反発したくなる気持ちがわきあがるんじゃないかって思ったりする。
少なくとも以前の私ならそうだった。


相手の気持ちの責任までとらなくていいとは思う。
そんなことしてたら何も語れない。
思うけれど。
頭ではわかっているつもりでも。

過去の自分のことを考えるとなかなかそこまでできない。


私がなぜあの頭のおかしいサイコパスのターゲットになったのかとか、自分を責めることなく今は理解できるけれど、それを語っていくには私の性格形成や生い立ちなどにもふれることになる。そしてそれはあくまで「過去の私に起きたことを、今の私の視点から見て、こう思う」ということなのだけれど、
性格とかその言葉自体で拒否反応がおきることだってあるだろう。

私がそういうことを考えているのは、性被害だけでなく、自分の生育環境や性格、価値観がどうだったか、を考えざるを得ない状況に今あるからだ。
性被害だけが私の人生ではないのであり、私の人生を私は見きわめ総括しないと前に進めないことだってもちろんある。



被害者だけでなく加害者もいろいろで、
あくまでも、私に危害を加えた加害者がどうして私にあれだけ執着したのかとか、考えて考えて、いろいろ調べたりもして(頭痛と震えを感じながら)私なりにある程度考えはまとまってはいる。
けれど、だからといって当時の私にはどうしようもなかった。
あのときああしていればとか、こうしていればとか、そういうふうにあれこれ考えたりはしない。
被害者はあのときああしていれば、こうしなければ、と、とてもささいなことでも自分を責めることが多い。実際に私もよく聞く。
私の場合、突然被害にあったわけではないためか、ずっといつ殺されるかわからないという恐怖で過ごしていて、事件(私にとっては殺人未遂だが)が起きた、というか加害者が犯罪をおこしたわけで、ある意味、加害者から逃げる、あるいは加害者が自発的に去るべく、できる限りのことをした結果だったから、ああしていればこうしていれば、とはあまり思わない。逆にどういうふうにしていても結局はああいう結果になるしかなかった、と思う。
恐怖と混乱の中、できる限りのことはやった。そう思う。誰でも同じ状況に置かれたらそうすると思う。

結局、狙われたら最後、なのだ。
だからなぜあんなにも異常な人がうろちょろと世の中にふつうにいるわけ?犯罪いっぱいやってるのに、と、加害者のことを知るにつけ恐ろしさも感じめまいどころでない倒れるほどのショックを何度も経験し、よりいっそうの恐怖を感じた。
そんな加害者が当たり前に私たちまともな人間と同じ社会で生活している、そのこと自体が、そもそも異常すぎる現実だった。私にとっては。

私の場合、加害者の「異常度」が突出していたように思う。そりゃそうだ、サイコパスなんだから。
もちろん性暴力の加害者は全員、正常だなんて全く思えない。全員異常だとは思うが、なんというか、わかりやすい異常性、といえばいいだろうか。前科もたくさんあり、闇の世界とつながっていてーという。
あのときの私にはどうしようもなかった。
あんなに異常な人が存在するということさえ知らなかったし、異常だからどう対応しても結局はむこうが自発的に納得するしかなくて、要するに「あきらめてもらう」のを待つしかなかった。
なんで「もらう」なんて屈辱的な言葉を使わないといけないのか、苛立たしいが、現実はそうだった。
どんな人間関係でも、どちらかが距離を置こうとしたり、接触をたとうとしたりする、というのは当たり前にありうることで、それを普通の人は受け入れるのだ。やり方や形はさまざまであっても。
それが、加害者は違う。何が何でも受け入れない、自分の思うとおりにしか行動しない、自分以外のことも自分に決める権利がありそれに従うのが他の人間だと本気で思っている。話し合いなんて成立するわけなかったのだ。穏便な解決法なんて存在しなかった。

当時のことを思い返してみると、
普通の人のようにいくら誠意をつくして気持ちを伝えて丁重にお断り申し上げても、逆にきつくはねつけても、思い切って無視しても、
加害者は自分の思うとおりにしないと気が済まないのだから、つきまとい続けるし暴れるし、私の関係者を脅迫したりと、今度は他の人に迷惑がかかる。
私のたとえば職場とか実家とかも何もかも知られてしまっていて、身動きがとれなかった。
もちろん最初は正常な人であるかのようにふるまうのだから、つきまとわれ続けている間に何も知られないようにするというのは無理だ。仮に私一人がそうしたとしても、他の人をおどしたりもしくは何らかの不正な手段をつかって情報を手に入れるなど簡単なことだ。なんのハードルもない。捕まったら困るとか追及されたら困るとか考えないのだから。異常者なのだから。犯罪のプロでもあるのだから。

いったいどうすればよかったのか?
防ぎようがなかった、としかやはり言いようがない。
加害者が刑務所にいればもちろん私はストーカーされることもなかった。加害者に目をつけられることがないのだから。
当時はストーカー防止法もなく、まあ仮にあったとしても、警告されたところで逆上するだけで、全く警察の介入なんて加害者は意に介さなかっただろう。ただ私が思い通りでないことをしたという、思い通りに支配できるはず、支配していいもの、自分の所有物と思いたい(もしくはすでにそう思っていたか)「オンナ」が、ささやかな反抗をしたから、逆らっていいはずはない、絶対君主である自分の力を思い知らせてやる、という感じで暴力はエスカレートして、決して終わらなかっただろう。
やはり同じ結末でないと終わらなかった。

そして被害者は私だけでなく、たくさん―ほんとうにたくさんいた。
なぜなら加害者は自分の行動を決めるのは自分だと思っている。そしてほかの人間にもそうする権利があることは理解していない。全く。
だから自分を恐れ嫌う相手のことは生意気な虫けら、としか思えなかっただろうし、
ましてや自分が気に入った「オンナ」が自分の思い通りにならないなんてそんな現実に生きることはできない。だから、暴力という手段に訴える。言うことを聞かせようとする。
そしてそのまま監禁したり、あるいは自分に逆らう「生意気なオンナ」を成敗してやった、と自分を納得させ、「他の人間にも意思がありそれは尊重されるべきである」という当たり前の現実なんて存在しないかのように、決めるのは何もかも自分一人だということを確認するために、犯罪をつぎつぎ重ねていく。

    ※加害者にとって女性は「モノ」でしかないから「オンナ」と表記した



誰も、どんな権力もとめることはできない。
できるとしたら、刑務所に入れておくことが唯一の方法。
被害者を出さない方法。

裁判の傍聴などで、やたらと「働く」ことが更生、とでもいうような風潮が当たり前に存在しているように感じるのが気にかかる。刑務所の中でも刑務所の外でも、働きさえすれば更生、と本気で弁護士も裁判官も思っているのではないか。

いやむしろ社会と関わらないでほしいんですけど。
遊んでていいので、懲役とか別にしなくていいので、とにかく隔離しておいてください、というのが私の本音だ。頼むから一般社会に出てこないでくれ。できれば死ぬまで。
性暴力加害者の治療プログラムは必要だとは思う――が、加害者のようなサイコパスが一人いると、治療プログラムそのものをめちゃくちゃにすることも多いようだ。少なくともアメリカでは実際にサイコパス研究者によってそう報告されている。
さもありなん、と加害者を(知りたくもないのに)知っている私は妙に納得してしまう。

他のもしかしたら治療可能な(本人たちが治したい、加害行為をやめたいと思わなければ意味がないし、よい印象を与えるために自分が変わるつもりなんて全くないのに取り組んでいるフリをしたりするやつだって多い)
加害者にさえも悪影響を及ぼすなんて、本当にもう、刑務所でさえ悪をまきちらしているわけだ。

考えると脱力感と無力感におちいる。そして頭痛がし、胃が痛くなり吐き気がする。


まあ日本の場合、刑務所内の加害者の治療だけ進めてても意味がないと私は思う。
ないよりまし、みたいな。
裁判所命令でずっと通うようなシステムがなければならないし、やっぱりGPSで追跡してほしい。

なにより保護観察が日本の場合、ボランティアにやらせていて、行方をくらませても保護観察違反とかにはならず放置されるだけなので(どうやら少しずつは変わってきているがボランティアというのは変わってないし変わるつもりもないように思える)
どうしようもない。
雇用の創出のためにも、保護観察官を、訓練をうけた職業として確立してほしい。保護観察を仕事とする人間がいるかいないかでは大きな違いが出る。
ボランティアの方には申し訳ないが、善意では対処できない犯罪者がいるのが現実なのだ。素人理論の説教なんてなんにもならない。専門家でさえサイコパスには全く歯が立たないといっていいくらいだ。


今ここで書いたようなことがずっと懸案事項として、加害者への恐怖として、私には現実でありとても身近で逼迫した問題なのだけれど、
もちろん世間はそうじゃないから、
自分がひとり世間の感覚からずれているような気持がして、自分がとてもダメな人間のように感じることさえもある。

性犯罪は警察にいけないのが殆どで、行ったとしても殆ど不起訴になるので、起訴されただけよかったじゃないと言われればなんとなく居心地悪く感じるが、なんとなくやっぱり、刑事裁判をしていないからわかってもらえない、と感じることも被害者どうしでもある。
警察でひどい対応をされたとか、不起訴になったとか、そういう人はある程度現実を身をもって知っているからわかってもらえることも多い。

起訴された人が殆どいないからそもそも人数が少ないし、
なんとか起訴され刑事裁判になったにしても自由に何かを言ったり書いたりすることはむずかしい。こういったブログとかも、裁判に影響するからとストップかけられたりするし、被害者はかなりの制限をかけられる。裁判になり裁かれたぶん、報復も怖い。
なにより、刑事裁判になったということは、特定されやすいということでもあるのだから、それがなにより怖い。
というわけで私と同じような立場で情報発信するというのはかなりハードルが高い。
このブログを始めたときもものすごく怖かったし今もこわい。


刑事裁判しても、むしろ裁判後とかは普通にくらしたい、以前の生活に戻りたい、と、性被害に関することから遠ざかりたい、と思うことが多いのではないだろうか。かつて私もそうだった。結局はなかったことにはもちろんできなかった。普通の日常が送れなかった。どんなにもがいても。
そんなこんなで、今私はこうして、つらつらと書いているわけだ。そしてこれからも。願わくば。