ゆずれないものを守る


自分のゆずれないもの、相手のゆずれないもの。
両方を守ることは、簡単なようで、実はとても難しい。


痛みはその人のもの。
その人にしかわからないもの。
他人がその痛みの軽重を決めることはできない。、     
他人が決めるとき、その人の痛みがその人の痛みでなくなり、ただの押し付けになってしまう。


怒りを感じることと、怒りを表現すること、ぶつけることは違う。
怒りは状況を変えたいという前向きなエネルギーであり、悪い感情ととらえる必要はない。
罪悪感を感じることもない。怒りを感じるのが当たり前の状況は、たくさんある。
そして、怒りの裏には、実は、悲しみ、不安、焦り、恐怖、寂しさ、などの感情が隠れていることが多い。
それを感じとれると私は少しは楽になるのだけれど、そんな余裕さえなく反応してしまうことがまだまだ多い。


反応ではなく、対応をする。
これはとても難しい。


人間ができていない私には、怒りをぶつけず相手を責めないよう心掛けていても、ついしてしまうことがあるのだ。
人を傷つけたくはないのだけれど、きっぱり線をひかなければならないとき、ついきつい口調になりがちだ。
相手がかっかしているとこっちもかっかしてしまったりして、結局泥仕合、ということもあった。
なれていないので余計にむずかしい。
失敗を重ねながら、学んでいく。四苦八苦しながら、学び続けていくのだろう。
そして間違いを認める権利ももちろんある。そしてそれは義務ではない。
そういうことを実感すると、私はだけれど、自分の気持ちに素直になれた。
怖がらずに感じとれるように少しずつなったということだろうか。もちろんまだまだだけれど。


I メッセージで話すことの大切さ、というのは、まさにこれを言っているのだろう。
私はこう感じる、と、自分に焦点をあてる。相手ではなく。
同じことを言っているようで、大きく違う。

相手を主語にするとき、それは決め付けであり押し付けになってしまいがちだ。
「私は・・・だ」と感情を語るとき、その感情を否定することにつながりにくいが、
「あなたは・・・・・・だ」には、「私は・・・・ではない」という反発がかえってくる。
相手の立場に立って考えると、当たり前のことでもある。


決め付けることは、感情ではなく“考え”。「あなた」ではなく、「わたし」の考え。
「あなたは・・・・・・だ」
「あなたの言動は・・・・・・だ」の
「・・・・・・」には、「わたし」個人の考えが入ってしまう。主語は「あなた」であるのに。
それは一般的なものと思っていても、その一般的とされる価値観自体、「そういうものだ」とマジョリティの巧妙な策略により、そう思わせられているだけかもしれない。


価値観とは、自分にとってゆずれないもの、守りたいものだ。
そしてそれは、人それぞれの経験によってつくられていくものだから、まさに個別的なものだ。
でもそれが自分の価値観として語っているつもりであっても。
自分の内面が欲しているものに気付かず、“こういうものだ”と信じ込まされているマジョリティの価値観の形をとって語ったとしても。
どちらにしても「・・・・・・すべき」という押し付けになってしまう。
「あなたは」が主語なのに、「・・・・・・だ」というところに、自分の考えが反映されている。


それを押し付け「・・・・・・べきだ」となってしまうとき、それは相手を自分の思い通りにすること、支配することにつながってしまう。意図していなくても。
そして“一般的な価値観”というのは、マジョリティに都合よくつくられたものになっている。
マイノリティの存在を認めず、個人を大切にしない文化であればあるほど。



わがままなことと、限界を設けることは違う。
なんでも無防備に引き受けることは、搾取されることと等しい。
納得しているつもりでも、本心からでなければ、いつか心は疲弊し恨みがたまる。
その疲弊さえ感じないよう洗脳することが、気付かないうちに小さい頃から社会構造として行われている。
儒教的な価値観であるイエ制度、家父長制、母性信仰という形で。


自分にできることとできないことを見極め、限界を設ける。
限界を超えた要求をされたら、「NO」と言うことが自由にできる世の中になってほしい。
自分を攻撃する相手にまで我慢して身を差し出し、犠牲となる必要はないのだ。



感情にいいも悪いもない、「正しい」感情なんてない。
それを初めて聞いたとき、目から鱗が落ちたような気がした。


上述したように、怒りの感情の裏には、悲しさや寂しさ、恐れなど、さまざまな感情が隠れていることが多いとも知った。
怒りは、今の状況が嫌だという気持ちの表れでもあり、変えていきたいという前向きな力にもなる。
そしてそれはそのとおりだと思う。


思うに、怒りの感情とうまく付き合うことが、わたしたち日本人は特に下手だ。


こんなことで怒ってはいけない、みっともない、大人気ない・・・そういったメッセージに囲まれて育つ。
自分の感情を大切にしてもらえない。
育てる側が自分の気持ちを大切にしていないからだ。
怒り方やその度合いまで、周囲が決めたものでしか認められない。許されない。
自分の感情をあるがままにストレートに表せない。



小さい頃から、何か違和感を感じても
「そういうことは言うもんじゃない」
と、親から、年長者から、指導者から・・・・・様々な「上」の人間たちによってたしなめられる。
そして、自分の感情が信用できなくなる。


自分の感情より相手の感情を優先することが美徳とされる。
それは実は、大人たちにとって、上の人間にとって「都合のいい」人間をつくられているのと同じなのだが、それは巧妙に隠される。
つまり支配であり抑圧なのだ。
「我慢は美徳」という、つくられた一般的に共有されてしまっている価値観は、極めて支配者に都合のいい手段だ。



たとえば、「いい奥さん」という言葉に反映されるように、社会構造として支配者である方に、被支配者は「都合のいい」ことが美徳とされているのも、いい例だ。



我慢は美徳、という日本の意識そのものを変えていき、自分はかけがえのない存在と認識すること。
これは重要なことだ。


そして、かけがえのない存在というのは、弱くてみっともないところも含めて、という意味であり、
ただむやみに自分を崇拝し自分を尊大な存在と思うこととは違う。
それは単なるうぬぼれであり単なるナルシズムでしかない。自己愛は、失敗体験を認められず、失敗から学ぶこともできず、自分は悪くない相手が悪いという思考しか生み出さない。
それと自己尊重とは違うのだ。



日本人は、議論というものを小さい頃からしない。
議論の習慣なく育つので、NOを言うことにも言われることにも慣れていない。


NOは、一部に対してNOであり、全否定ではない。
でも、それが全否定のように、宣戦布告のようにとられることが多い。


私にとってはNOだけれど他の人にとってはNOでないかもしれない。
とはいえ、譲れないところにはNOはやはりNOである。
それは信念であり、揺るがせないものだからだ。絶対に譲れないもの、価値観なのだ。
だからといって、全ての人にとっても、あなたにとってもNOであることを強要しない。
自発的に納得し自分の考えに賛成してくれるのなら、とても嬉しいけれど、本心では納得していないのにとりあえず表面上は合わせられると、なんだか馬鹿にされているような気がしてしまう。不安にもなる。
同情なんていらない。理解しよう、知ろうとしてくれることが一番嬉しい。


被害者はかわいそうな存在だから同情しろ。
被害者の言うことに対しては全て支持しろ。
そんなことは私は思っていない。


あまりに守られすぎると、なんだか落ち着かないくらいだ。
納得できなければそれでいいのだ。



それぞれの考えを大切にしてほしい。
ゆずれないものを、この人は傷ついているからあわせてあげようと抑えると、それがたとえ表面上であっても、いつか疲れてしまうと思う。
その結果、いつか大きく決裂したりするほうが、私はずっと悲しい。
それまで本気で向き合ってくれずごまかされていたような気持ちにさえなってしまう。
でも、これさえも、私の願望であり私の希望なので、それを相手に押し付けることはできないし、したくない。
ただ、私はこう思っています、と伝えることしかできない。


被害者の話を全て支持する必要はないし、
被害者のいうことを理解してくださるからといってその全てを支持する必要もない。
理解してくれる方々が皆すべて足並みそろえる必要も当然ない。
実際に、理解があると私が判断している人たちの中にも、いろいろな立場の人がいるし、反発しあっている人たちもいる。
でもそれは彼ら彼女らの間の問題であり、私がどうこういうことでは、もちろんない。


もちろん被害者同士だっていろいろな立場があり考えがある。
いろいろな人が発言しやすいような環境ができればいいなと思う。



全ての人が全ての考えを一致し共有するというのは、どんなに少ない人数であっても、無理な話だ。
たとえ似通った経験をしていても、難しい。それは身を持って経験している。
それはカルト集団のようになってしまい、怖いことでもある。
そういうことは私は望まない。


いろんな人がいろんな立場から発言している中に、でも私はこう思う、ということを構えずに伝えていきたい。
そして、それはその人に対する全否定ではないので、そこを気をつけながら伝えていきたいと思う。
そうすることで、では私はこう思う、とまた別の誰かが発言しやすくなればいいと思う。
無理のない範囲で、できれば構えずに応答してほしいと思う。
どこで食い違いがあるのか、おたがい知らない情報もあるだろうし、そういったことを意見交換していくことで、どうすればいいのか、新たな視点が開けることもあるだろう。



思いっきりマイノリティの立場であると自覚している身としては、ほんの一部でも、理解してくれるだけで、考えてくれるだけで、知ろうとしてくれるだけで、とっても嬉しいのだ。今まではそれさえもできなかったのだから。
特に、その人の核となるような信念であったり、よりどころとしている政治的な信条であったり、いろんな立場の人が大切にしているものを否定し、その人を変えていくということは考えていない。
どうすればもっと知ってもらえるのか、理解してもらえるのか。
あなたのゆずれないところを大切にしてほしい。その上で、できるときに、できることをしてほしい。
ときおり休みながらも、私は情報を発信し続けるから、気が向いたときにでも読みに来てくれると嬉しい。
耳を傾けてくれるだけでも、私にはとっても嬉しいことなのだから。


いま、ここに書いたことは、まだまだ私もできていないことだらけだけど、
頭に少しでも入っていることで、生きやすくなったのを実感しているので、書いておこうと思った。
私はこう思っています、という意思表明でもあるし、気をつけていこうという自分への戒めでもある。


こういったことを教えてくれた本や、実践している方々に感謝してやまない。


たくさん人に傷つけられたけれど。
そのぶん、人のありがたみがわかった。
人と少しずつでもつながることの大切さがわかった。


マイノリティであることを自覚している身としては、ほんとうに、少しでも理解してくれるところがあれば嬉しいのだ。


だから、人と関わり続ける限り、生きていく限り、難しさにふうふうしながらも、少しずつ進んでいきたい。


<関連記事>
わかってほしい気持ちの行方





<私信>

まだまだわかっていないことも多いと思うけれど、考え続けることがきっと大切なのでしょう。
こうしたことを改めて考え、書くきっかけをくださったgameover1001様に感謝いたします。


内部にいると見えないことも多いので、外からの視点というのはとてもありがたく大切に思います。


そして何より、いろいろな方に話をしたり聞いたりして情報を集めてくださり、とても、とても、嬉しくありがたかったです。
記事で書かれた、ニュージーランドの情報は知らなかったので、とても参考になりました。
性暴力に関して、じゅうぶんすぎるほど沢山の情報と励ましをいただきました。


シンプルな語り口で、そして何よりユーモアと優しさあふれる文章を読むと励まされます。

できましたら、これからも時折お立ち寄りくださると嬉しいです。
遠くから見ていてくださるだけでも、ほんとうにありがたいです。
あたたかい眼差しでいらっしゃる方の存在だけで、嬉しいのですから。
(欲を言うと、気が向いたときに、気がついたことを教えていただけると更にありがたいですが^_^;
それはもちろん無理強いできるものではありません。)


ただ、こういう考えスタンスでいます、ということをこのエントリを通してお伝えしたいと思いました。


ひどいコメントが来たということには、胸が痛みました。
ですが、悲しいことを含め、
ゆずれないもの、についてもあらためて感じるきっかけとなりました。