プロパガンダの変遷 2


前のエントリ「プロパガンダの変遷 1」
で取り上げた、連載記事の続きです。



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100729-OYT8T00311.htm
(7)市川房枝 職場婚の勧め

 戦後の高度成長期、同じ職場の男女が結婚する「職場結婚」はきわめて多かった。職場結婚をいち早く提唱したのは、婦人参政権運動で活躍した市川房枝だ。

 証拠は1939年(昭和14年)11月20日の読売新聞家庭面に掲載された「ご法度恋愛回れ右 職場結婚を認めよ」という市川の談話。

 市川はいう。政府は人口を増やすために結婚を奨励しているが、日中戦争が続き「若い男は多く出征」しており、結婚は難しくなっている。そこで、どこの会社でも禁止されている「職場内の男女の恋愛や結婚」を「進んで認め斡旋(あっせん)の労をとる位にしてほしいものです」。

 そのうえで市川は、結婚して子どもを産んでも働き続けることができる環境を求めた。「勤務時間の制限とか、より完全な託児場の設置」が必要だとしている。

 市川の職場結婚論は現在の仕事と子育ての両立支援策に近い。この構想は市川だけの空想ではなかった。

 42年9月4日に、「同一職場の結婚 風紀は逆によくなる 第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で試験ずみ」という記事が掲載される。造兵廠とは武器の製造工場のこと。記事には、人事相談所主任の談話を掲載している。「職場結婚は、よく知っている者同士の結びつきなので相互の理解も深く理想的な結婚。熟練した女子を退職させないためにも職場内の結婚が望ましい」という。

 43年1月には「職場の結婚相談」という4回の連載を掲載。第一陸軍造兵廠も取り上げられている。託児所が2か所あり「母たちは休憩や食事の時間に授乳にやってきて、再び職場に帰り、心おきなく共稼ぎ」しているという。

 立川飛行機も、子どもができても働けるよう産婦人科と託児所を設置していると記事にある。

 戦時の女性に求められた出産と労働。その両方を実現するため、こうした施策が行われた。(敬称略)

(2010年7月29日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100730-OYT8T00290.htm
(8)「日本の母」わが子ささげた

「君のためにはわが子をも喜んでささげるのが日本の母です」という文章が、1942年(昭和17年)3月11日の読売新聞の家庭面に掲載される。筆者は、女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)。

 子を産み愛することと、子を戦場に送ることは両立しない。その矛盾を解消するのが、この「日本の母」論だった。

 同年9月9日、社会面で「日本の母」という全49回の大連載がはじまる。

 読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画。軍人援護会の府県支部から「日本の母」が推薦され、作家による訪問記の連載となった。執筆者には、川端康成菊池寛佐藤春夫などそうそうたる名前がならぶ。

 8月25日の家庭面で連載の意義が説明されている。「立派な母を模範としてすべての女性が子供を育てなければならぬという自覚を促す」と述べているのは、言論統制機関である内閣情報局の次長。日本放送協会なども後援しており、国ぐるみの事業だった。

 詩人の高村光太郎が訪ねたのは、山梨県の女性。2人の子どもが召集され、1人が戦病死した。

 「(我が子が)ご奉公できたことを最上の名誉と肝に銘じて立ち上がった。以来おばさんの国家に対する奉公の熱意、上御一人(かみごいちにん)に対し奉る尽忠の誠意は前にも増して燃え上がった」。上御一人とは天皇のこと。

 劇作家の久保田万太郎が訪ねたのは東京の平間りつという女性。5人の子が召集され、3人が戦死、戦病死した。

 「わたくしの訪問は三十分で終わりました。わたくしのような訪問者としばしば折衝した経験を持つりつさんをわたくしが発見したからであります。どんなキイを叩(たた)いても規則正しい音しかでないことがわたくしにわかったからであります」

 遺族のもとに取材が集中していたこと、遺族が気持ちを自由に話せなかったことが、久保田の文章からうかがえる。子の死を悲しむことが許されなかったのである。

 (敬称略、引用文は仮名遣いなどを改め一部省略)

(2010年7月30日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100731-OYT8T00173.htm
(9)「軍神の母」求める声高く

 1942年(昭和17年)8月から9月、読売新聞家庭面で「軍神に学ぶ」という15回の連載が掲載された。

 国民学校(小学校)などの校長と少年で「軍神敬頌(けいしょう)派遣団」をつくり、全国の軍神の生家を訪ねた。そこで学んだことを、校長たちが座談会形式で語っている。

 軍神とは、輝かしい武功をたてた戦死者の尊称。真珠湾攻撃で戦死した「九軍神」や、「空の軍神」加藤少将を当時だれもが知っていた。連載では、ある大尉のこんな話が紹介された。

 「(大尉が)『お母さんもし私が死んでもお母さん泣きはしないでしょうね』と尋ねたところ、『泣くものですか。手柄を立てて死んだのだったら涙ひとつ出しません』といわれ、大尉は涙を流して喜ばれたということであります」

 この時期、新聞には母を礼賛する記事が、1面から社会面まで掲載された。

 同年4月の2面には「良き母あれば戦争は勝つ」の大見出し。「日本の兵士が大君の御盾(みたて)となって散ってゆけるのも、心の網膜にやさしい母のまなざしが生き生きと輝き、慈母観音のように自分を見守っていてくれるからだ」と海軍大佐が語っている。

 絶対的な存在である母が、国のために死になさいというのだから、子は安心して死んでいく。そういう理屈が展開される。「母こそ長期戦を完遂する根幹である」と同年10月の社説は書いた。総力戦は母の愛も動員したのである。

 43年5月、家庭面に「武家の女子教育」が連載された。筆者は、国民精神を明らかにするために設置された「国民精神文化研究所」の所員。「(軍神の母たちは)自分の子どもは陛下からお預かり申しあげているのであるという信念に徹した母達であったのである。われわれはこの点改めて日本の女子教育の伝統を回復する必要があろう」として、女性に対する高等教育と婦人参政権論者を批判する。

 このころ、女性の論者は家庭面から姿を消し、男性の筆者が女性に対し、「軍神の母」であることを求める論調を展開するようになる。(次回は3日に掲載します)

(2010年7月31日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100803-OYT8T00240.htm
(10)「標準服」洋装の契機に

「これが婦人国民服 和服も再生出来て仕立ては簡単」。対米開戦直後の1941年12月20日の読売新聞朝刊に、写真入りで女性服が紹介された。厚生省が、一般から公募していた「婦人標準服」がほぼ決定したという記事。

 甲型は、「洋服を日本化し、日本襟が特長」、乙型は「和服の欠点を改良し袖丈を短く帯も半幅、すそも輪式(スカート風)に」と記事は説明する。さらにそれぞれワンピース型とツーピース型があるという。今見ると不思議な服だ。標準服は翌年正式決定され、家庭面でも、作り方を紹介した。

 なぜこんな服が作られたのか。

 見出しにある国民服とは、40年1月に発表された男性用の服。最小限度の手直しで軍服として使え、布の節約も目的とした。終戦前には多くの男性が着用したので、よく知られる。

 国民服に続き、公募されたのが「婦人標準服」だ。当時、多くの女性は和服を着ていたが、たもとや幅広の帯などで動きにくい。洋服は活動的だが、戦時下、日本的なものを完全に否定もできない。そこで、「日本襟にスカート」という和洋折衷の標準服ができた。

 42年2月の家庭面では厚生省の担当者が「和服の非活動、洋服の単なる欧米模倣を排して、生活向上に進むことです」と説明している。

 しかし、42年11月の家庭面に、「婦人標準服はなぜ普及せぬ」という記事が掲載される。「活動性、日本女性美の発揚を謳(うた)って厚生省が発表してからもう十か月にもなる今日、街にも家庭にもほとんどその姿を見受けません――」

 標準服は、タンスに退蔵している服を仕立て直して作るのが建前で、既製服が出回らないのが普及しない要因。また、手縫いも難しいと思われている、と記事は指摘する。

 標準服はまったく普及しなかった。しかし、日本的美を主張しながらも、洋服型が示されたことで、洋装家が勢いを得た面もある。武庫川女子大の井上雅人講師は「和服ではない衣服を女性の服として政府が認めたことで、洋装についての議論が活発になった。戦後の洋裁ブームを準備したといえる」と話す。

(2010年8月3日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100804-OYT8T00187.htm
(11)モンペ「科学的」に推奨

戦時中の女性の服として印象が強いのがモンペだ。国が公募した標準服は普及しなかったが、モンペは多くの女性が着用した。

 「活動的なばかりでなく、薪炭の不足がちな戦争下の保温服装として、モンペの使用はもっと普及徹底化されねばならぬ(中略)モンペは働く婦人の戦闘衣なのである」。1942年(昭和17年)12月の読売新聞家庭面で、早稲田大教授の今和次郎(こんわじろう)がこう訴えている。

 モンペは、東北地方などの農村の仕事着。和服と違い両足が分かれ、動きやすい点などが、古くから着目されていた。読売新聞でも1925年(大正14年)2月にすでにモンペを評価する記事がある。

 一方でモンペは、「格好のよくない服」と見なされていた。また、両足がはっきりわかる衣類は、女性にとってはしたないとも考えられていた。こうしたことから、当初は政府の中にもモンペの普及に反対する声があった。

 「科学的に被服を見よ」(42年11月婦人特集)。記事は、戦時下、装飾的な要素より科学性に重きを置いて衣服を検討していくべきだとし、保温性などでモンペが優れていることを強調している。生活を「科学的」に見直すべきだと、この時期盛んに言われていた。43年3月の家庭面も「モンペで歩くのは恥ずかしいといった気持ちを捨てきれないのは大きな間違いです」。

 国は、節約のため、タンスに退蔵されている衣料を、活動性の高い衣類に女性が自分で仕立て直すことを求めた。モンペは縫うのが簡単で、これに適していた。

 42年から43年にかけ、家庭面は、モンペの改良についての実用記事を度々掲載した。「ズボン型のモンペ 洋装なさる方に格好よく」「今までまた下が短すぎた」――。

 行政、婦人団体なども推奨を続け、防空訓練などで女性たちはモンペに慣れていった。隣組などによる相互監視で、仕方なくはいていた例もあっただろう。

 武庫川女子大の井上雅人講師は「総力戦下、機械の部品のように国民を均質化しようとする論理が、モンペに反対する声に勝った」と話す。(敬称略)

(2010年8月4日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100805-OYT8T00182.htm
(12)「国民食」の栄養基準 むなしく

「今度は国民食の制定へ」。1940年(昭和15年)10月22日の読売新聞朝刊の記事だ。「衣」の国民服に続き、「食」にも統制が必要と、「食糧報国連盟」が、栄養学に基づく国民食を制定することを伝えている。

 記事はこう説明する。「一部上層者には食品は豊富だが、多数は不足している。『おごらず欠けるところのない食べ物』を全国に配置し――」

 当時は米不足が問題化していた。明治以降の人口増加に伴う消費量増に加え、農村部の労働力が兵役のため減る。主要産地だった朝鮮半島の凶作も響いた。

 また、都市と農村の格差も大きく、農村の食事は栄養が偏りがちだった。

 国民食は、年齢別性別の栄養基準に基づく食。メンやパンを取り入れ、カロリーやたんぱく質量などを示した。同年11月に基礎案が決まった。

 「国民食の標準はどんな食品か」。40年11月の家庭面は、軽い立ち作業をする成年男子に必要な2400キロ・カロリーを取るための1日の食事例を紹介している。カロリーは現在の基準とほぼ同じだ。小麦混入米が約3合、イワシや牛細切れなど肉類120グラム、ニンジン、ジャガイモなど芋や野菜類、豆腐、油脂類、食パン――。

 41年2月の婦人特集では、食糧報国連盟の献立例を示した。寄せ鍋、五目ご飯、ハヤシライス、イワシのフリッターなどが登場し、味も工夫したと強調している。

 ただ、国民食が、国民にすぐに受け入れられたわけではないようだ。「恐ろしく画一的な食事形式を国民に強いる」「栄養学者が試験管で研究したものを押しつける」という誤解があると食糧報国連盟の担当者は述べている(41年1月17日朝刊)。

 さらに、この後、戦況の悪化で食糧事情は切迫してくる。国民食で示された基準を満たすことは、現実には出来なくなっていく。42年ころからは、国民食についての記事も少なくなった。

 静岡大学の矢野敬一教授は「国民食は、絵に描いた餅となった。しかし、階層差のない食のあり方が示され、国民が栄養についての知識を共有するきっかけとなった」と指摘する。

(2010年8月5日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100806-OYT8T00184.htm
(13)食糧事情が悪化郷土食に脚光

食を統制する「国民食」の議論の中で、注目されるようになったのが「郷土食」だ。

 1941年(昭和16年)1月8日の読売新聞家庭面は、国民食について「要点を決めて各郷土で応用して行く」という大政翼賛会の見解を紹介した。3月の家庭面も、「郷土食のいいものは広く取り入れる」ことを主張している。

 「国民食」は、必要なカロリーなど栄養基準を示したものの食糧事情の悪化で現実的ではなくなっていく。入れ替わるように43年ごろから、「郷土食」が、紙面に度々登場するようになる。雑穀や芋、山菜などを使った各地に伝わる料理を見直すことで、米不足を補おうというのだ。

 政府は43年6月に「食糧増産応急対策要綱」を決定、郷土食を見直す運動も盛り込んだ。これを受け、社説はこう書いた。「食糧需給対策として最も適切な方法(中略)農村が出来るだけ米食から郷土食に移ってもらえば、食糧計画遂行が楽になる」

 雑穀などが中心の食事だった農村も、米の配給制で米の消費が増えていた。それを元に戻そうというのである。

 家庭面では、郷土食の作り方を紹介した。「材料をちょっと加えればどの地方にもできて、戦争下にふさわしい」(43年7月)。10月にも、山梨の「ほうとう」、岐阜の「いもぼたもち」、京都の「豆茶がゆ」など、米が少なくて済む料理の記事を載せた。

 「草深い山村に埋もれた郷土食がいまや決戦食として再検討されている――」。連載「郷土食を探る」が2面に掲載されたのが44年4月。全国の帝国大学が行った大規模な郷土食調査を伝えた。トウモロコシやカボチャ、サツマイモなどを使った各地の郷土食を紹介し、「何でも食べることが都会の郷土食的決戦食であろう」と記事は結んだ。

 実際、食糧事情の悪化とともに、都市部のいたるところで、カボチャやサツマイモが植えられ、野草も勧められることになる。

 家庭生活も成り立たなくなり、読売新聞の家庭面は44年9月に休止となる。

 静岡大の矢野敬一教授は「郷土食への注目は、ある種の地域文化の見直しにつながった。ただ戦後は、郷土食は貧しく脱却すべきものとみなされ、米の収量増が図られた」と話す。

(2010年8月6日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100807-OYT8T00178.htm
(14)「婦人参政権」獲得へ 国策に協力

1942年(昭和17年)6月30日の読売新聞家庭面に、女性たちの似顔絵が紹介されている。

 下段右端は、婦人参政権運動を指導してきた市川房枝。ほかに東京女子医大創立者吉岡弥生など、当時の有力な女性たちが並ぶ。

 この時期、こうした女性たちは、政府の各種委員などに就き、「婦人国策委員」などと呼ばれた。女性に参政権のない時代、女性が政治にものを言う新局面が到来したことを意味した。

 婦人国策委員たちは家庭面に盛んに登場している。

 「女子の徴用を行え」という記事が、43年6月の家庭面に掲載されている。市川らのグループが「女子動員は徴用の形をはっきり採用」することを求める意見をまとめたという内容。徴用とは、令状によって、軍需工場などで働かせること。当時の女子挺身(ていしん)隊などは勤労奉仕で、徴用に比べれば強制性は薄かった。働かない女性が多いから「徴用を行え」というのである。

 こうした言動には、当時から批判があった。39年6月の家庭面に「市川房枝女史 役人の片棒かつぎ」という痛烈な見出しの記事が載っている。「(市川は)役人の片棒かついで利口に立ち回りすぎるとかこつ女性ファンもある。女史ともあろうものが、御用がすんだら『家庭に帰れ』で手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」と結ぶ。

 市川は、なぜ、戦争体制に協力したのだろうか。

 国際基督教大の武田清子名誉教授(93)は「この時代の女性指導者の多くは、女性が国民としての義務を果たすことが、婦人参政権につながると考えていた。しかし女性の地位向上への思いが強いあまり軍国主義への警戒が足りず、全体の動きを見る目が甘くなったのではないか」と話す。

 欧米の女性が第1次世界大戦で戦争に協力した結果、参政権を得たということは当時、常識だった。前述の「手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」とは「戦争が終わったら婦人参政権は獲得するんでしょうね」という意味である。

 (敬称略、次回は10日に掲載します)

(2010年8月7日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100810-OYT8T00173.htm

(15)参政権獲得と不戦の決意

敗戦から10日後の1945年(昭和20年)8月25日、市川房枝は仲間とともに戦後対策婦人委員会を発足させ、東久邇(ひがしくに)首相や政治家の鳩山一郎婦人参政権の実現を働きかけた。

 同年10月7日、幣原(しではら)内閣組閣に際して市川は読売新聞に談話を寄せた。「戦争に負けたことについては婦人が十分に働かされていなかったからだということを自覚していますから、国の立て直しには力いっぱい働きたいと考えているのです」

 こうした動きを受け、幣原内閣は、婦人参政権閣議決定する。

 一般には、10月11日、「婦人の解放」を掲げた5大改革を、マッカーサーが幣原に指令したことによって婦人参政権は実現したとされている。

 しかし、実際には、その前に日本側で決定していた。10月13日の読売新聞の記事によると、婦人参政権については臨時閣議ですでに決定したと幣原がマッカーサーに回答したところ、「早手回しそれで結構だ、今後ともその調子でやってほしい」と言われたという。

 同じ紙面で、堀切善次郎内務大臣は、「戦時中における婦人の敢闘(かんとう)ぶりを見、かつ女性の職場進出と相まっての社会的地位の向上から考えて現在すでに日本女性が参政権を得てもきわめて妥当と考える」と話している。

 堀切は後年、市川が編集した『日本婦人問題資料集成 政治』の中に「婦人参政権マッカーサーの贈物ではない」という談話を残している。それによると、堀切は戦時中、女性指導者と仕事を共にし、敬意を抱いていた。そこで、10月10日の閣議婦人参政権を提案し、賛同を得たという。

 婦人参政権が、戦争協力の結果として実現したというのは、現在の我々には認めがたい。しかし、堀切はそう考えていた。

 新聞記者が市川を訪ね「うれしいでしょう」と聞いた。市川はしばらく黙ってから「うれしいです」と答えた。「与えられた参政権を使って、二度と再びこういう戦争を起こさないように(中略)覚悟をきめて、そのうえでうれしいですといったんです」(『人間の記録 市川房枝』)(敬称略)

(2010年8月10日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100811-OYT8T00233.htm

(16)平和が戻り紙面再開

読売新聞婦人部の元記者、井上敏子(86)は、東京大空襲で母イネ(当時45歳)と姉喜美(同23歳)を亡くした。

 1945年(昭和20年)3月10日未明、空襲が始まると浅草の自宅はすぐに火に包まれ、妹と2人で隅田川に飛び込み、船にしがみついて夜を明かした。翌日、行方不明になった2人を捜して、黒こげの遺体を一つ一つ見て歩いたが、見つからなかった。東京都の慰霊堂に姉の遺骨が保管されているのがわかったのは、39年後の84年3月のことだ。

 井上は38年に読売新聞の総務局に採用され、和文タイピストや庶務係などとして働いていた。当時女性社員は少なく、記事の写真モデルにも駆り出された。

 43年9月の家庭面「空襲に備えて 非常袋を備えよ」の記事では、モンペ・防空ずきん姿で非常袋(印鑑や財布、貯金通帳などを入れる貴重品袋)を、肩から下げた井上の写真が掲載されている。

 終戦から5年後の50年、職場で花を生けていた井上は、編集主幹の安田庄司に記者になるよう勧誘された。「婦人部を作るから来ないか」。井上が「私は浅学非才で、つづり方は丙だった」と断ると、安田は「これからは女性の時代だ」と熱心に説いたという。「今までのように男を主に考えた紙面ではだめだ」「女性の目を開く紙面にする」「戦争で壊れた家庭を再生したい」「お母さん教育のために生活記事を主にした紙面を作りたい」――。

 戦争末期に休止した家庭面は48年に再スタートしたものの不定期掲載だった。文化部に吸収されていた婦人部が50年に復活し、51年9月1日から家庭面は連日掲載になる。この日のトップ記事では、婦人運動家の山川菊栄が「戦争防止へ参政権を活用しよう」と呼びかけた。

 こうして、家庭面の戦争は終わった。(敬称略)

 (この連載は斎藤雄介、伊藤剛寛、月野美帆子が担当しました)(おわり)

(2010年8月11日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100825-OYT8T00193.htm
[反響]子が戦死 記憶封印の母


家族のつらさ知り、胸痛む

 先月から今月にかけ掲載した企画「家庭面の一世紀 女性と戦争」で、太平洋戦争中の読売新聞連載「日本の母」を取り上げたところ、関係者や読者から手紙が寄せられた。翻弄(ほんろう)される母の姿に、改めて戦争について考えさせられる。

 「日本の母」は、読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画で、1942年(昭和17年)に掲載され、翌年本として出版された。当時の著名作家が、戦死者の母を訪れ、我が子を国にささげた母をたたえるという内容だった。

 「家庭面の一世紀」では、劇作家の久保田万太郎が東京の平間りつさんという女性を訪ねて書いた記事を取り上げた。りつさんは5人の子が日中戦争に召集され、3人が戦死、戦病死した。

 これに、りつさんの孫で、東京都台東区の平間美枝子さん(64)が手紙を寄せた。

 67年に84歳で亡くなったりつさんや、りつさんの四男で美枝子さんの父である四郎さんから、戦争のことについてほとんど聞くことはなかったという。

 「戦争で3人の子どもが犠牲になるということは、思い出したくないほどつらい記憶なので、話せなかったのでは」と推測する。

 現在、戦争の記憶を思い起こす遺品などは残っていない。「3人が戦死したということしか知らなかったので、当時の読売新聞の記事で家族の具体的な様子を初めて知り、胸を痛めた」と美枝子さん。

 埼玉県在住の友石知恵子さん(77)の母、橋本すずさんも「日本の母」の連載に登場している。見出しには「尊く宿る犠牲奉公 馬鈴薯を売り歩き子供に教育」とある。

 すずさんの長男は陸軍中尉で、40年に中国で戦死した。

 友石さんは「今回の記事を見て、教育熱心で厳しかった母を思い出した」と話す。

 すずさんは58年に63歳で亡くなった。「つらくても弱音を吐かない気丈な母だったので、戦争の話はほとんどしなかった。陸軍士官学校を出た自慢の長男が戦死して本当はさびしかったと思う」と話す。

 「日本の母」の本を実家の仏壇に供えていたが、その後紛失したため、今回の記事をきっかけに古本屋で探し求めて改めて読んだという。

 札幌市の主婦花田綾子さん(53)は、中学3年生の娘を持つ母として連載記事に感想を寄せた。「子どもを亡くすことほど母にとってつらい悲しみはない。戦争や国のために子どもを産んだわけではなく、犠牲を強いる戦争なんて、あってはいけないこと」

 また、当時の新聞の姿勢にも疑問を投げかける。「新聞などのマスコミや有名な作家があおって、『日本の母』を賛美したのは恐ろしいこと。国民も大きな影響を受けたのではないだろうか。二度と悲劇が起こらないようにすることが大切だと思う」と話した。

(2010年8月25日 読売新聞)