たぶん差はここ

多くの人が知る、裁判や検察、警察のこととは、
重大事件とされる事件のことを、報道を通して知る。

そして報道にもある程度ストーリーがあり、
問題とされることは加害者や被害者をより傷つけることにもなり、
報道されない。

むしろ、被害者や加害者にとって重要なことであっても、
世間はそう捉えない。
なので報道されない。

そして、世間一般の人は知ることがない。
本当の実態を。


さらに言えば。
警察も検察も裁判官も、世間から注目されてマスコミに注目されていれば、
優秀な人物が担当する。
彼らが考えられる限りの、彼らの感覚での「きちんとした」対応をする。

そして世間はその一面しかおそらく知らない。
もちろんその中にも不備はあるのだが、それさえ、
世間の同情を大きく引くようなものでなければ知られることはない。
報道されないのだから。


もっと悲惨なのは、
関係者が「重大事件でない」と見なしたものは、
「きちんとした」扱いさえされないということだ。

性犯罪は、
たとえば判明している被害者の数が多い事件。
被害者が子どもである事件。
性暴力以外にも悪質な点がある事件。

そういったものは世間が怒りを表明し、そういった報道もされるのだが。


性犯罪に関しては、
「優秀」とされる人でも、組織全体が知識も何もないため、
ただしい知識を持っていれば不起訴にすることもなく、
加害者側に反証することもできるのに、
それさえできない。


残念ながら「重大事件」とされないものは、
窓際族の検察官が担当し。
本当にひどい扱いを受ける。


性犯罪が他と違うのは、被害者が傍聴にさえ行けないことだ。
家族や友人に行って様子を見てもらうよう頼むことさえ、できないだろう。
少なくとも私はできない。
どんなにひどいことを言われているのか、目の当たりにはさせられない。
傷つけたくない。

それをいいことに、あまりに好き勝手にされてきた。


告訴を取り下げるという前提で警察は適当にしか捜査しないのが多いし、
示談する、だから大した罪にはならないと検察官には最初から適当に扱われ、
示談するまでの時間つぶしのような公判が行われていた。


被害者参加制度を使い、弁護士を立てれば、代理人として法廷の中に入ることもできるけれど。
それまでは、弁護士も傍聴することしかできなかった。
あまりにおかしな進行がなされていても、何もできない。
検察官に連絡しても、検察官が聞く耳を持たなければ何も変わらない。


どっちが原因か結果かもごちゃごちゃのまま、
窓際検察官が担当し、まともな反証もせず、
出来レースのような裁判で、相場どおりの判決が出る。
最初から決まっているのだ。
判決なんて、その理由付けにすぎない。


それが現実だった。
たぶんあまり知られていない。


裁判沙汰に巻き込まれたくない一般の人の思いはわかるけれど。
あまりに刑事裁判のおかしさ理不尽さを体験した者としては。
一緒に真剣に考えてほしいと思う。
私の知っている限り、現実を伝えるから。



私は、起訴されていいねとさえ言われることさえあるけれど。
逆に、とても孤独感を感じることがある。


でも、犯罪なのに、
事件として受理さえされない、
不起訴にされる、
さらには検察審査会に申し立ててもやはり不起訴にされる、
そして高等検察庁に申し立ててもダメ。


何度も同じことを話し、否定され、私より何重にも傷ついた人もいる。


裁判となっても、
無罪判決
(法定義と判例がおかしいのと、それを疑うことない司法関係者は一番感覚がおかしく、
正しい知識もないので、無罪とはいえ、無実ではない)
が出たり。

一生否定されたまま生きていかなくてはならない。



「無罪という名の冤罪」という言葉をある方から教えてもらった。
言い得て妙である。
でも、「無罪という名の冤罪」の加害者は、もちろん再審請求なんてしない。


被害者は、再審請求なんてできない。
権利さえない。


冤罪が問題視され、警察も検察も謝罪し
(検察が謝罪したのは裁判員裁判で国民の支持を得るためだ、今までならありえなかったことだ)、
裁判官も謝罪しないのかと言われている。
毎日のように報道され特集まで組まれている。


でも、司法の独立という名の横暴の、ほんの一面だ。


そこは共通しているけれど、

どれだけ多くの被害者が、謝罪してほしいと思っただろう。
そんなこと思うことさえできないほど傷ついている。
あまりの理不尽さを、なんの権利もないことを思い知っているから。

不起訴にされたことを。
無罪とされたことを。
謝罪してほしいと思っても、それすら求めることはできない。
どれだけ多くの重すぎる涙が流れているのか、思いを馳せてくれる人さえいない。

もう二度と関わりたくないという思いを加害者だけでなく、司法関係者にさえ思い。
頼りにしないと決める。
法よりも何よりも大事なものがある。


納得のいく結果の裁判なんて、ない。

重大事件と見なされなければ。
被害者の意見をきいて検察は控訴してくれない。

最初から決まっている、出来レースだし、
弁護士に転じたら食べていけないほどの
無能な窓際検察官が担当していたのだから。



なのに加害者に控訴され上告され、何年も裁判の時間がかかり、
より大変な思いをすることある。
全て加害者の都合。
加害者を守る国の都合。



それでも、どうやら世間はいいようだ。
しょせんヒトゴトなのだから。


私の受けた傷なんて大したことないのかもしれない。
私は、なんど訴えなければよかったと思ったかわからない。
世の中というものをよく知っている、賢い人は訴えないんじゃないかとさえ思ったこともある。
でも、訴えざるを得なかった。
そうでなければよりひどい結果になっていただろうから。


性犯罪は他の犯罪とは違う。
たとえ初犯であっても、それは捕まったのが初めてということであり、
犯行自体は絶対に初めてではない。
あまりに手慣れていると、自分の事件のことだけでなく、あちこちで聞いた話で思うことだ。


加害者にとっては、あまりに簡単なことだ。


そして、司法も世間も誤解しているが、「性的欲求が抑えられず」犯行に走るわけではない。
判決文には必ず「自己の性的欲望を満たす身勝手さ」「女性の人格と尊厳を傷つけ」
等と出るけれど。
彼らにとっては、「性的欲望を抑えられない」というわけではなく、
最大限の屈辱を味あわせるということで、全能感を抱くのではないかと私は思う。
支配した感覚。
全てをコントロールしたという感覚。
それはきっと彼らにとっては、気持ちの悪いことだが、やみつきになるようだ。


彼らにとっては、性的欲求うんぬんの話ではなく、趣味みたいなものなのだ。
吐き気がする現実だが。


判決で「女性の人格と尊厳」と判を押したように言うけれど、
自分たち司法関係者が途中で被害者の人格と尊厳を傷つけているのは棚上げだ。
そもそも「尊厳」の意味さえわかっていないだろう、と思う。


司法関係者は、言葉を知らない。


世間は、パターン化された、重大事件のことしか知らない。


重大事件とされる被害者の遺族の手記を読むと、
あまりに待遇も検察官の対応も違うことに慄然とする。
まるで別の組織のような警察であり検察である。


加害者はあまりに守られている。


検察は、勝てそうなものしか起訴しない。
「容疑者」を裁判中に犯罪者扱いするな、刑が出るまでは「容疑者」だというのならば。
まず、検察に文句を言ってほしいと私は思う。
有罪率が高いことを知っているの?その原因を知っているの?と思うのだ。


結局、被害者参加制度も、裁判員裁判も、改正審査会法も、
検察のこれ以上の横暴を許さない装置だ。


裁判員裁判と改正審査会法が同時にスタートしたのに、
そのことを関連付けて捉えている人は見当たらない。


ときおり、どうしようもない孤独感に陥る。
被害者の中でも、ひとり浮いているような気持ちになる。


それはみんな個々の事情でそうなのだと思う。
ひとりとして同じ事情はないのだから当たり前だ。
ひとりひとりの話を聞くたびにそう思う。


むかし、自分と似た、「特殊な事情」がある被害者の方と出会えたときはとても嬉しかった。
今は、「特殊な事情」が、「刑事裁判をしたこと」そのものになってしまっている。
ちょっと辛い。
誰かとわかちあえたら。


そして、あちこちで、「被害者差別」を感じる。
障がい者差別や同和差別、外国人差別
女性差別は、それらほど差別として認識されていないとよく言われるし、私もそう思うけれど。


でも。
「被害者差別」は悪いとさえ思われていない。
さらにいえば、「性犯罪被害者差別」ってものすごい。
これっていったい何?


本来、性暴力に理解がある人でさえも、支援者でさえも、
「被害者は何も変わっていない」
「被害を受けたからといって、他の人と違うことはない」
という認識がどこか抜けている人は、やはりいる。


あるところで、
いくら悪くないとはいっても、現実問題、被害者は、よい条件でその後の人生を過ごせない。
という人もいる。
何の悪意もなく、むしろ理解のある立場の人なのだろうが。
だからこそ余計に傷が深くなる。
そしてそのことに疑問さえ抱いていないのだ。


だけど。
現実を知らずに、「資料」として扱うのはやめてほしい。
もう、言葉遊びはやめてほしい。
言葉遊びにしか見えない。


やめろとはいわないけど、実は私はかなりきつい思いをしているのは事実だ。
どうせあなたたちの答えは決まっているではないか。
いちおうの不快感を示してはおく。