言い表せない異常さ


隣の家の少女」を呼んだ。
途中何度もくらくらしそうになりながらも、一気に読んだ。

ひとつひとつの場面の状況、雰囲気、登場人物の性格、精神状態が細かく描写されていた。
自分が例えばこうすればこう反応があるというのがわかっているからこそ、身動きできなくなっていく心理状態、というものが、微妙なところまできっちり描かれていた。


主人公は、とんでもないことが起きているとはわかっている。それがエスカレートしていくことを恐ろしく感じていく。
だがそれに悩みながらも、切り離すことができない。日常の延長にあるため、ぷっつり切り離して、全くの異常なこととする区別ができない。


ひどい折檻(ようは虐待なのだけど)にしても、自分や自分の身の回りが経験していることとどう違うのか、明確にわからない。 ―これはその時代のアメリカの話だけではない。残念なことに。
主人公の少年は混乱し、その混沌とした暴力の中から抜け出せない。
だが人に知られてはいけないことという認識はある。
苦しみ悩み、打ち明けようとし、できなくて泣く。自分も手ひどい暴力の対象になることをおそれて、また自分のしたことを知られることへの恐れもあり、立ちすくんだまま疲弊していく。


暴力がどんどんひどくなっていくことをとめられず、信じられない光景が幻だったのか夢だったのか、そうあってほしいと悩み、そして被害者や加害者に、それまで自分が知っていたのと同じ人間的な反応があると逆に安心したりする。
おそろしいことに、この安心は加害者全てに共通しているため、次の残虐行為へとつながる。
非日常から日常へと戻ったと錯覚しどんどん感覚がおかしくなっていく。

その描写が小憎らしいくらい巧みに表現されていると思った。




事件そのものだけを切り取って説明すると。
こんなひどいこと、あるはずがない。
そう思う人は多いだろう。


日本で言えば、女子高生コンクリート殺人事件のようなものだ。
でも。
表に出てこないだけで、世間が思っているよりずっとこういう事件は多いし、こういうことをする「人間」が多いのだ。フィクションではなく現実にたくさん起きている。



同じ人間とは思えない。
私は、そう思っていながらも、それでも、うめきたくなるほどのぞっとするほどの邪悪さに接さざるをえなかった。
おかしいとわかっていたはずでも、何度もうちのめされた。ここまでひどいのかと何度も肌があわ立つような思いをした。
単なる非難や嫌悪の意味ではなく、「これは人間ではない」と痛感した日々を思い出す。
わかっていたはずでも、これでもか、これでもか、と、その異常さ、邪悪さ、をつきつけられ続け、それはまともに立っていられないほどの衝撃だった。あまりの邪悪さ。どす黒さ。
すさまじい悪意に、震撼し、あるいはもうあまりのひどさにこっちが壊れて、笑ってしまいそうになるほどだった。


加害者はきわめて異常な人間だった。(だがもちろん外から見た目にはわからない)


こうした「人間」が、実はさほど珍しくもないことを知っている身としては、
どれほど自己愛が強く、自分以外を人間と思うことができない「人間」が多く存在することを知っている身としては。
以下の描写が、そのことを、実はとても的確に表現していると思った。


このことを、真実味をもって理解できる人がどれほどいるか、わからないけれど―。




 何日もまえから理解しようとしていた感情に、とうとうぴたりと焦点があった。
 わたしは、12月の寒風のなか、裸で立っているかのようにふるえはじめた。なぜなら、見えたからだ。においがしたからだ。メグの悲鳴が聞こえたからだ。メグの未来が、わたしの未来がはるか先まで見えたからだ―そのような行為の結末がありありと。
 だが、それが見えているのはわたしだけだとわかっていた。
 ほかの連中は(中略)想像力を持ちあわせていなかった。
 まったく。ひとかけらも。彼らはなにも考えていなかった。
 自分以外の他人にかんして、いま現在以外のあらゆる事柄にかんして、彼らは盲目だった。空っぽだった。
 そして、そう、わたしはふるえていた。無理もなかった。なにしろわかったのだから。
 わたしは野蛮人にとらわれていたのだ。わたしは野蛮人と暮らしていたのだ。わたしは野蛮人の仲間だったのだ。
 いや、野蛮人ではない。それでは不正確だ。
 それ以下だった。
 犬や猫の群れ、それともウーファーがよくおもちゃにしていた獰猛な赤蟻の群れのほうが近かった。
 まったくべつの種のようだった。人間そっくりだが、人間らしい感情を理解できない知的生物のようだった。
 わたしをとりかこむ連中の異質性に圧倒された。
 その邪悪に。



 メグはルースの目をまっすぐに見つめた。そして一瞬、目に当惑の色をうかべた。いまとなっても、ルースに、どうして、どうしてなのとたずねているかのように。


「いまとなっても」の言葉が胸に痛かった。この気持ちはとてもよくわかる。
私も、どうしてそんなことができるのだ、の連続だったから。


そう、言葉にしてみるとシンプルすぎるが、あまりの異常性、理解の範疇をこえた行いに、当惑するのだ。
当惑と混乱の連続だった。
もちろん怒りも悲しみも絶望もあるが、すべてその異常性、邪悪なものが原因だ。
想像を絶する異常性と関わらざるをえない苦しみというのは、言葉にするのは難しい。
つきまとわれている間も。加害者が逮捕された後、起訴され裁判となったときも。そしてその後さまざまな事実を知ったときも。
知りたくもないのに、さまざまな側面を知る羽目になった。


人が人でなくなることは、実は身近だ。
力ある者が、弱い者に残虐な行為をするというのは、簡単なことだ。鬱屈した怒りは弱い者へとぶつけられる。
そのことを私たちはもっと真剣に考える必要があるように思う。


異常者が一人いると、周囲にはどんどん感覚鈍麻がおきてしまい、最終的には殆どの人間がおかしくなる。
生きるか死ぬかの状況では、人間らしい心が失われてしまう。
戦争や強制収容所でおきるのは、まさにこれだ。



身近な例で挙げると(身近であってほしくないが)、たとえば、いじめなどがわかりやすいだろう。
ひどいとは思っていても、特に積極的に助けようとしてくれる人はまれだ。
今の小学校中学校高校でも、それは同じようだ。

いわく、
自分はただその場にいただけだ、
自分も他者をいたぶることで鬱屈したストレスが解消できた、
何もできないというあきらめと無力感、
何かしたら今度は自分に攻撃が来るという恐れ。
なんとかしたかったが、どうにもできなかった。
そこには様々な声がうごめいている。


いろいろな性格の人が、悩んだり苦しんだりする。
あるいは全く何も感じない。自分は無関係だという感覚にすがっている。
あるいは他人を傷つけることに喜びを見出したりする。



まともな社会規範を大人が作り、それを子どもが学べる体制をととのえることの大切さを改めて考えさせられる。
当たり前のことであるはずなのに、それがとても難しいというのは、悲しいことだ。



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