「察してもらいたい」は甘え


NHK追跡!AtoZ 1/30(土)放送「問われる日本人の"言語力"」を見ました。


途中からだったのですが、印象に残ったことを少し。



性暴力がどうしてこんなにも多いのか、そしてあまりに社会の問題意識が乏しいのか、などを考えているのですが、
どうしても日本人の根本的な価値観というものがやはり絡んできます。
もちろん日本だけではないのですが、特に日本的だなとやはり思うことも以下の中にはあるのではないかと思っています。



いろいろな言葉で表現できるとは思いますが、


・個人の意思を尊重しない
・多様性を認めない
・「権利を主張する」ことをよしとしない
・曖昧ですませる、なあなあですませるのが大好き
・「マジョリティが考えるであろうこと」にあわせた言動をすることを求められる
・「我慢は美徳」という考えが根強い
・過ちをすること、不完全であることを認めない



そしてこれを支える背骨となっているのが、家父長制です。
ジェンダーとイエ意識、「母性」信仰社会にも深く結びついています。
ところが「保守」とされる人々は、それを良しとして維持したがるので、いろいろなことがずれてきているわけです。


家父長制と一言では言い切れないくらいの様々な抑圧や差別は、もう文化となり私たちの意識に刷り込まれています。
私にももちろんあります。日々それに気付かされ考えさせられます。
幼い頃から次のようなことを刷り込まれていきます。


年長者、男性の言うことをきけ、
男性は優れている、女性は劣っている、
男性は社会に出て活躍、家事や育児をするのは女性に向いている、
男性は強くリードしていかなければならない、女性は優しく周囲にあわせなくてはならない、
などなどです。


いろいろな「べき」「べき」論があるわけです。
これは結局、弱い立場の人、少数とされる人への抑圧へと結びつきます。



性差別の問題だけではなく、さまざまな差別と共通しています。
イエ制度を信奉するあまり、虐待やDVなど家庭内のことにはノータッチで、
「日本には虐待はない、しつけはある」なんて怖ろしいことを言い不介入。
「馬鹿な女をしつけてるんだ、教育してやってるんだ」と言いDVをする。
(そもそも男性にとって都合のいい妻のことを、ふしぎと「いい奥さん」という表現がまかりとおっています。
 これはDVの始まりでしかないので、誉め言葉として使うのは変でしょう。)


まだまだ、本当にまだまだ、全然、虐待もDVも対応できていない。
社会全体で救おうという体制になっていない。
性暴力なんて「ない」ことにしたいわけですから、まともに取り組もうとさえしない。
(それでも、昔よりは少しずつ少しずつですがよくなっていて、ようやくここまできた、というのは事実です。)



それを維持したいのは、これで利益を得ている人たちなわけで、
これを打破したいのは、思いっきり不利益を被っている人なわけですが、
権力のあるところには、維持したい人たちばかりです。



番組では、
「察して動け」は甘え、
自分の意見を主張することをしていくことが求められる、
などと放送していました。


こういったことを「言語力」という切り口で捉えて、グローバル社会に対応できない、という焦りを強調することで、聞く耳を持つ人もいるのか、というのが新鮮というか、ショックというか・・・。



個人的にはそういった意識がつくられる背景にもっと迫ってほしかったと思います。
ジェンダーやイエ意識など。(でもそうすると聞く耳を持たない人ばかりなのだろうと思います)


結局、上のものにあわせて動くのが求められていて、それが普通とされていて、そしてそれに疑問を持たない人が実際に多く、大多数とされていく世の中。そういう流れをつくられてしまう世の中。
本当はどうかわからないのに、考えたり疑問を持ったりすることさえ許されず、マジョリティ意識をつくる。
そこからはみ出るヤツは叩いて構わない、という意識を無意識につくられている社会。
出る杭は打たれる、というのがまかりとおっているわけです。でも人間はモノではない。杭の一つになって揺るがないモノをつくる(何のために?)ことが目的なんて、怖すぎます。
多様性を大切にしない、というのが、マイノリティ、少数とされる人たち、例えばしょうがいを持った人に対して優しくない世の中になっていると思います。
被害者もしかり。性犯罪被害者はいろんな抑圧をされる。



このエントリは、昨日、他のテレビを見ていて、思うことがあったので、それにつなげて書こうと思ったのですが、深遠なるテーマで、私の言葉が追いつかない。


とりあえず、考え続けることが大切なのだろうと思うので、メモ代わりにアップしておきます。




追記:番組の内容はこちらのサイトを読まれるとよりわかりやすいと思います。
   ■50代オヤジの独言■     追跡AtoZ:言語力 


TB送信先:■はてこはだいたい家にいる■左利きが右手障害じゃないなら自閉症は?http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100126/Asperger_syndrome

限界を感じる、そして行動する


※フラッシュバックするかもしれない内容が含まれていますので、読む読まない含め、体調にご注意ください。
 



先日、フラッシュバックした、という趣旨の記事を書きました。


それから約一週間、外出するのが怖いというかおっくうになり、ほぼ家にいました。
その間、本来ならば出かけるはずだった人には、「体調が悪い」など連絡しました。
ほぼ唯一、被害のことを打ち明けている人には、正直に、ちょっと外出恐怖症になってますと伝えました。大げさに心配されずに受け止めてもらえるから、言いやすいです。



心の調子が悪い、というとき、実は真面目だったりする私は「体調が悪い」というのはいいづらかったのですが、
嘘じゃない、本当のことじゃない、とある方に強く言われてから、そうか、とようやく納得できたのでした。
ただでさえ自責感、罪悪感でいっぱいのときは、それすら言えずに、ひたすら頑張り続けて、とうとうひどい状態になってしまったこともありました。
心の病気、というのは実は、脳の中がうまいこと働いていないので、確かに体の病気でもあります。



なので、堂々と「体調が悪い」と最近は言えるようになりました。
「どこが悪いのか」と訊かれても、それ以上言いたくない相手には、話をそらしたりする技術も身につけました。
(まだまだ磨きをかける必要がありますが、私にとっては大進歩です。かなり嘘をつくのがへたで人生損しています)
とはいえ、働いているときは、やはり根掘り葉掘り訊かれてすごく辛かったです。
胃腸や頭痛、そして免疫が弱いので、そういったことを言っていましたが、何を言っても「弱い人」と見なされるので嫌でした。


また、今はそれほどではないものの、PMSがひどかったです。
PMSは回復するにつれて軽くなると、先行く仲間に言われたことがありますが、今はそれを実感しています。


もともと生理痛は強い方ではあったのですが、ふしぎと、被害に遭ってからしばらくすると、ものすごくPMSが酷くなったのでした。ストレスが何百倍にも何千倍にもなったからかなと勝手に今は解釈しています。



話を戻します。
さて、フラッシュバックで一週間、家でゆっくりしていたのですが、
どうしても出かけなくてはならない用事があったので、がんばって月曜日に出かけました。
ついでにお気に入りのお店でお気に入りのメニューを頼み、ぼーっとひとりランチなどしてきました。
ほんとうは他にも用事がたまっていたのですが、最低限の用事だけ済ませて家に帰りました。



そして、昨日は、夕方にひとりで外出できて、帰って来れたので、自分的にはかなり頑張った、という感じです。
これが一番、私にとってはですが、怖いことだからです。
たとえ朝外出しても、夕方に戻るというのは、私は怖いのです。(それもあり、外出するのが、よけいに億劫になったりします。)
途中、やっぱり帰るのが怖い、となったら、同居人が帰る時間に帰ろうと決めて出かけました。
なんとか1人で戻れてよかったです(心配させるので)。



夕方という時間帯は私はとても怖く、ひとりで家にいる状態から、外に出る、家路を急ぐ人たちのせわしない雰囲気を味わい、用事を済ませて戻る、というのが、かなり怖い状態です。
夕方の雰囲気って独特で、そのせわしなさの間に、私は誰にも助けてもらえなかったという思いがどこかにあるからでしょう。


本当は、夕方の空模様を眺めるのが好きなのですが、なかなかできません。
被害に遭った時期などは、記念日反応でずっとなんだか胸の中がつかえているような感じで苦しいので、
お昼の三時くらいから夜になるまで無理に眠ったり、逆に目をらんらんとさせてずっと起きて、警戒し続けていたりもします。



とはいえ、自分の状態がある程度把握できるようになったぶん、これでも回復した方です。
自分が何を欲しているかわからずに、ひたすら無理をし続けていた間が一番つらかったです。
どういう事情があるのかも知らずに、あれこれ言われるのがつらかった。
働きたいのに働けないというのは、惨めなものです。



ほんとうに具合が悪いときは、数ヶ月単位で外出も億劫になってしまっていたのですが、
そういうとき、お役所から税金だのいろいろ払うよう通知が来ると、本当にブルーになります。
今はコンビニ支払いなどできるところもあるようですが、金融機関の窓口のみ、となると、かなり厳しい。
歩いていける距離にないと、無理です。
(ちなみに今は車がありますが、状態によっては車を運転するのも自信がないときも多いです。)


出かけて行って、手続きをするまで待つ、ということが、かなりハードルが高くなったりもしました。
結局、期限切れ、金融機関取り扱い不可、場合によっては差し押さえます、役所に来るようにといった趣旨の通知まで受け取ったこともありました。
もう、自分に激しく自己嫌悪でした。


そのときやったことをふと思い出したので、書いておきます。


役所に思い切って電話して、事情を簡単に話しました。
体調が悪く、銀行のみの扱いでは、近くにないので行けない、
体調がよい日もあるが、送付されるものはどれも期限が短く(二週間くらいとか)、行けなかった、
払う意思はあるがどうしたらよいか、と。


担当の人は、では、銀行も郵便局も両方使えるものを、期限が長いものを改めて送ると言ってくれました。
来年度からは引き落としにしたい意思も告げましたが、今年度の分までは対象外なので、そうしましょう、と。
で、そのとおりのものが送られてきて、ほっとしました。
今度は期限が数ヶ月あったので、体調のいい日に行けると思い、ほんとうにほっとしました。
数ヶ月の間、ずっと気になっていたことだったので。


まあ・・・お役所にはいろいろと嫌な思いもさせられているわけですが、
きちんと事情を話せば、こういう対応もしてくれるんだな、とわかっただけで、
何より、わがままと捉えかねられない事情もきちんと受け止めて対応してくれたのが、嬉しくありがたかったです。
ああ、私は一応この社会にいてもいいんだな、とほっとしたというか・・・。



NOを言うことの大切さ、限界を示すことの大切さ、というのを、日々実感しているわけですが、
ふとこのことを思い出して書いてみました。

性暴力被害特集 : NHK教育「ハートをつなごう」  


本日と明日、NHK教育で「ハートをつなごう」で性暴力被害の特集が放送されます。


放送時間
1月25日(月)、26日(火) 午後8時〜8時29分


再放送 
2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分〜1時49分


予告のハイライトで父親から性的虐待を受けた方のインタビューが
少し放送されたそうです。


http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/より転載


性暴力被害

教育テレビ 1月25日(月)、26日(火) 午後8時〜8時29分
再放送 2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分〜1時49分

ハートをつなごう』ではこれまで摂食障害自傷癖などさまざまな依存症に悩む人たちの声を取り上げてきました。
その背景には何があるのか。生きづらさを切々と訴える多くのメールにある共通項があることに気付きました。

それは“性暴力被害”の経験があるということです。
“信頼していた友人からレイプされた。”
“子どものころ、父親から性器を触られた。”
“職場の上司から毎日、セクハラを受ける。うつになった…。”

最近の調査だと女性のおよそ8割が被害を受けた経験があると言われています。
男性も決して少なくないそうです。
被害を受けた人たちは何に苦しみ、何に悩むのか。
彼女・彼らを支えるために何が必要なのか。
二日にわたり、勇気を出して出演してくれた4人の被害者の方たちと話し合います。

※お寄せ頂いた声を元に、2月下旬に反響編を放送する予定です。(1/26追記)

https://www.nhk.or.jp/heart-net/form/hearttv.html
からメッセージも送れるようです。個人名など必要なようですが(仮名じゃだめなのかしら)。

↓に一部引用しました。   ※詳細は上記サイトをご覧ください。

性暴力被害は女性の8割、男性も2割が受けたことがあると、それぞれ調査があります。
特別なことではない、とても身近な、そして傷が深く長く残る体験です。
さらに、誰にも話せず、一人でかかえこむことが多いといいます。
そこで番組では、性暴力被害にあった方や側で支える人の体験を募集しています。
どのような被害を受け、なにに悩み、どのように傷と向き合ってきたのか、聞かせてください。


性暴力被害はセクハラや痴漢、レイプなど性的に嫌だと思った体験を言います。
例えば…
「子どものころ、知り合いの男性から性器を見せられた」
「高校生のとき、電車の中で痴漢にあい、通学経路を変えた」
「上司や同僚からセクハラを受け、耐えきれなくなり退職した」



本館のコメント欄で教えていただきました。
私も見ようと思います。再放送の日になってしまうかもしれませんが。

ご覧になられた方、感想など交換できると嬉しいです。

フラッシュバック

※フラッシュバックするかもしれない内容が含まれています。


一言でフラッシュバックといっても、被害の状況がリアルに再現されるようなものもあれば、
そのときの苦しい感情がわきあがる感情的フラッシュバック(この言葉は私は最近知った)、というものもある。


わたし自身のことにかぎっていえば、
フラッシュバックの内容も頻度も、さらにはそれによるダメージの大きさも、
被害からどのくらい経っているのかということと、
どういう状態なのか、状態がいいか悪いか、などでかなり違ってくるのだけれど。



わたし自身は加害者に付きまとわれている間、必然的に加害者のことをある程度知ることになってしまい。
さらには加害者親族に脅されたりなどする中で、そして裁判の中で、さらには裁判の後で。


そんなの知りたくねーよ、と言いたいくらい、むだに加害者についての情報を知る羽目になってしまった。



そのせいか、加害者を思い出させるようなきっかけというものが、やたらめったら多い。
ふつうに生活していても、なんでこんなに、加害者のことを思い出させるようなものばかりなのだ、と、気が狂いそうになっていた。


二次加害者についてもそうだけれど、やはり加害者本人のことを思い出させるようなきっかけは、相当にきつい。
あたりまえだ、危害を加えた張本人なのだから。


被害に関連すること。苦しいこと。つらいこと。
それに対する意味づけを変える。
それはとても重要なことだ。


たとえば、私は被害に遭う直前の状態、
お金をおろそうかどうか迷ったあげく、「明日でいいや」と思い、疲れて帰宅途中だったせいか。
お財布の中にお金が少ない、という状態がものすごく怖い。


でも体調が悪いと、なんと銀行にさえ行けなくなってしまうので、よけいに悪循環。
どうしようもないときは、コンビニでおろす。
しかも、夜中に気持ち悪くなっておろしたり、早朝おろしたり。
翌日を待つというのが怖くてできなかったりする。


自分のお金ならともかく、パートナーが苦労して稼いできたお金を、よけいな手数料をつけて無意味に引き出すということにものすごく悪いなと思い、落ち込み、落ち込む自分にさらに落ち込み・・・という悪循環に陥る。


こういうことをカウンセラーに話すと、超真剣な顔で、
「でも、いざというときのために、お金は必要なんだから」
と言われた。


えっ、と戸惑う私に、
たとえば夜中に具合が悪くなるかもしれないし、急な誰かの不幸で駆けつけないと行けないときもあるかもしれない、というようなことを言われた。


よく咀嚼できないまま、その超真剣な勢いで思わず頷いてしまったのだが。
ああ、彼女は意味づけを変えようとしてくれたのかもしれない、と思う。
他にもこういうことはわんさかある。


それが自分の中で定着するかどうかは別として、誰か信頼できる相手、好きな相手(性的な意味ではなく精神的な意味で)が、自分の為にしてくれたこと、言ってくれたこと、もしくはそれに関連すること、そういったことの象徴となるようなもの。
そういうものが自分にとってのお守りとなって、心が穏やかになるときもある。



ふだんはやりすごせていても、ほんとうにひどいフラッシュバックというのは、それさえもできない。



フラッシュバックというのは、ほんとうに制御不能だ。
ひたすら、今は安全、今は大丈夫、と言い聞かせても、だめなものはだめだ。


被害に遭ったときというのは (私はつきまとわれていた間も含むけれど、これはむしろ精神的暴力、モラハラに近い)
自分の体だけでなく心も思い通りにされてしまっているということだ。
嫌なのに、自分が大切に思う人としか本来したくないことをされてしまう。
大切にまで思えなくても、いいと思うときに、この人ならいい、と思う人とすることで、それを決めるのも全部本来自分にあるはずなのに、そういう感覚自体もなにもかも、無視され支配されてしまう。
そこにあるのは、相手だけの思い。
傷つけ、そのことで強さを確認し優位にたちたいという、人間のクズの身勝手な思い。
(何が愛していた、だ、と吐き気がする)



性行為についての意味づけは、とても個人的個別的なものだと思う。
たとえ愛のない行為でも、むなしさを感じても、この人とならばいい、と思うこととは全く違う。そして、そのむなしさは、後になって徐々に自分を蝕むので ―(これも私にとっては、という意味だけれど。それは、本当に愛する相手とそういうことをすることの意味を自分なりに見つけたからでもあると思う)
―傷つくからやめるという選択肢もあるし、そういうことを学ぶのも、全部自分で行動した結果だからよいのだろう。
と、思う。



えーと。


何が言いたいかわからなくなってきたけれど、
被害自体の記憶そのものはない、というかイメージのようなものでしかない。今は、だけれど(直後は違った)。
それは脳の中のどこかに押し込められていて、そのふたがあきそうになると、ほんとうに苦しくなる。
記憶がないのならつらくないなんて、大間違いで、記憶にさえ残せないほど、つらすぎる記憶だということだ。
(PTSDは海馬を萎縮させるというのは真実だと思う)


そして、その苦しい記憶をゆさぶり、制御不能になりかけたり、実際に制御不能になることで、ばらばらになった自分というものを改めて痛感し、さらにつらくなる。


そのきっかけとなるようなものが、加害者を想起させるものであったりすると、さらに辛い。
私の場合は、警察も検察も裁判も何もかもきつくて、さらには主要な二次加害者三次加害者を想起させるものも、
全て含めると多すぎて、全く日常生活を送るなんて困難なほどだった。
たとえばパトカーのサイレンがなったり、テレビや映画に法廷の映像が出てくるともう駄目だった。
あげるときりがないくらい、だめなものが多すぎた。
つらい記憶をゆさぶるきっかけとなるもの、トリガーとなるものが多すぎた。


被害そのもののイメージと、狭い取調べ室で屈辱と恐怖を感じていたせいか、いつのまにか暗所恐怖症、閉所恐怖症になっていたし、これは治りそうにもない。



私にとっては、加害者の行動パターンや性格を思い起こさせるようなものが、一番きつい。
そういう人がこちらを性的な対象とした行動をとることで、吐きそうなくらいダメージを受ける。


なぜ、ただ見られたり話しかけられたりするだけでこんなに恐怖なのだろうと思うけれど、
それが、今回、加害者に似た人物ということで、ものすごいダメージを受けてしまったので、
そうか、加害者を思い起こさせるから駄目なのだ、と改めてわかった。


これって でも、避けようがないから、つらい。



EMDRを受けるかどうか迷ったとき、
日常生活に影響がどのくらいあるかで考えたら、というアドバイスをされたけれど。


こんなにもふらふらするくらいなら、やっぱり考えた方がいいのかもしれない。



ただ、EMDRを実施する人によって効果はかなり違うらしいので、慎重に選んだ方がいいということ。
誰か信頼できる人に付き添ってほしいけれど、私の場合、それが難しいので、一人で受けに行くのは、ためらいが残る。



結局は、ダメージのある自分と、どう付き合っていくか、ということなので、
周囲がああしろこうしろ言うことで、よけいに、コントロール、というより自己制御能力を奪われ続けるような気がして、よけいにつらくなる。
ダメージを受けているときは、自分がどういう状態なのか、どういう気持ちなのかさえ、わからない。
自分の感情を感じ取って言葉にすることができないほどダメージを受けているのだから。


ただ、責めずに、あれこれ判断したり評価したりせずに、
そして自分のせいで動揺したりしない(これでよけいに自責感と罪悪感が強まり、孤独感が深まるし軋轢がうまれる)、
安心して思いを受けとめてくれる相手、というのが一番ありがたい。



いつまでも過去のことにこだわりすぎる、と言われたりすると、ほんとうに悲しくなる。
こだわりたくてこだわっているのではないのだ。


今ならわかるけれど、
そういうことを言ってくる相手は、苦しんでいるのを見ると自分が動揺する、自分は今苦しみたくないから見聞きさせないで、と本当は思っているのだろう。
自分の気持ちとか弱さに向き合わないで、
「ポジティブにいこーぜ!!」と単純極まりないことを言わないでほしい。
こういうことを言う人に限って、自分がいざそういう目に遭うと、弱いのだと思う。


つくづく、知らないふりをしているだけの間違った世の中の常識を押し付けられると、より何かにのみこまれそうな感覚が強まり、支配されているという気持ちになり苦しくなる。
制御不能ということを感じとらないと、まず立て直せない。
制御不能だということくらい、言わせてくれ、言うことくらい制御させてくれ、と思ってしまう。



このままではやっていけない、そう思って心配しているつもりで、自分に火の粉がかかってくるのを嫌がっているだけかもしれない。そうかもしれないけれど、今それをいったところでどうにもならないのだ。


まあ人間みんな弱いので(私を含め)完ぺきな人なんていないのだけれど、
自分の気持ちを押し付けないで、周囲の人も一度、自分ととことんまでじっくり向き合ってほしいと、
さんざん周囲の無理解により口をつぐまされ、余計にそれで傷が深くなった私などは思ってしまうのだ。


そういう習慣が普段ないので(内省的な人は蔑まれる傾向があるマッチョ社会)、よけいに断絶は深まるのだろう。
ふだんから自分と向き合う習慣を誰もが身につけていれば、もうちょっと何かが変わる気がする。


と、だらだら書いてみました。

性犯罪の公訴時効に関して

マスコミでは殆ど取り上げられていないのですが、先月、公訴時効に関して性犯罪も対象にするよう、性暴力禁止法をつくろうネットワークが要望を出したそうです。
取り上げたのはNHKと東京新聞のみです。



「置き去りにされている犯罪被害者 ― 性犯罪被害者」のエントリで書いたように、
性犯罪を裁判員裁判の対象にする割には模擬裁判さえしていない状態で組み込み、そのわりには時効に関して全く置いてけぼりで、また置き去りになっているわけです。
心身にこれだけダメージを与える犯罪にも関わらず、とても適当な扱いで、重大事件として扱ってないのです。



公訴時効に関してはパブリックコメントも募集していたので、なんとか書いて出したかったのですが、
わたし自身、時効に関してうまく考えがまとまっていないのと、個人では名前電話住所等が必要なのと、時間的な制約や心身の不調もあり、ほんとうに残念ながら無理でした。


私の心身への影響、人生への影響という点で考えると、被害の影響が完全に消滅するというのは難しく、性被害を受けた自分を完全に捨てることはできず、そういった悲しい面と共存していくしかないのです。
ただ私は、形としては刑事裁判という形で、はなはだ不本意ではあるものの判決が出ているので、時効について本当の意味で語れないと思います。


犯人が捕まらず時効を迎える。犯人が誰かさえ分からない。訴えたいと思ったときにはとっくに時効で納得いかない。
そういった声を多く聞きます。
できればそういった声を反映させたかったのですが、自分の言葉で語れず、またどなたか窓口になってくれる方を探す気力もなく、時間切れとなってしまいました。


今回の公訴時効の件で、残念ながらひとりでは限界があるな・・・とつくづく思いました。



それぞれ経験も思いも違うとは思いますが、わかちあって、支えあって、いつか要望書やパブリックコメントなど出せるようになりたいと思っています。
できる人が、できるときに。無理のない範囲で。
あまり拘束力がない、したいときだけ参加するというようなグループをつくれないかな、と思ったりしています。
やはり当事者の声というのは大きいようですから。


伝えていきたい気持ち、経験。きっといろいろな思いがおありだと思います。
今回の公訴時効にかぎらず、お話したいことを、お話したい分だけ、
教えていただけるととても嬉しいです。(もちろん個人情報は伏せてください)



あちこちで言われて、そして多少実感もしているのですが、たしかに無理をすると倒れます。
歯がゆいですが、ゆっくり進んでいくしかないというのは本当なのでしょう。



被害者当事者の声を届ける体制作り。
これを目標にしたいです。




東京新聞の記事を以下に載せますのでご覧下さい。
(画像アップロードのやり方がわからず見づらくなっていて申し訳ないです)


性虐待の加害者は身近な人

セクハラは、上下関係を利用して起きる。
加害者にとっての“オンナとしての魅力”が同じでも、彼らは自分より上の立場の相手には、セクハラをしない。


それと同じように、
性虐待も、上下関係を利用して起きる。


身近な大人。
家族はもちろん。指導者、つまり教師やなんらかの教える立場の講師・コーチ。近所の人。親戚。聖職者による性犯罪も、実は日本でもとても多い。
もちろんこども同士の性犯罪もある。
残念ながら身近な人物こそ危険だという認識を持つべきだ。



虐待家庭や、ひとり親家庭
なんらかの事情のある機能不全家庭。
性被害を受ける被害者には、そういう背景を持つ人がとても多い。


それは、そういう背景があると、加害者がとても近づきやすいからという側面もある。
口実として二人きりになることがとても容易だ。
何か問題があると当然悩みもある。
職業としては、ふだん関わらない人も関わることになる。カウンセラーや医者、弁護士、行政職員、施設職員など。キリがない。
そういう事情につけこみ、二人きりになる状況を容易につくりだすことができる。たとえば教師による個人面談など。
本気で心配しているように見えて、そして途中までは本気で心配していても。
―計画的なのが殆どだとは思うが。
最初からか途中からかの差はあっても。性の対象として見る大人が多すぎる。


特に、なんらかの暴力を受けて育ったこどもは、めまぐるしく変化する暴力加害者を知っている。
優しい時もある加害者を知っている。
だからこそ混乱する。
そして、自分の感情を否定されて育ってきたために、自分を大切に思えていない。
自己肯定感が低い。自分の感情を尊重されたことがほとんどない。
だからこそ、自分の感情を感じとることも、直感を信じることも、とてもむずかしい。
(これは大人でも同じで、そういったことができるようになるには、訓練が必要だ。)


そういう訓練が不十分なのに、身近な大人だからといって、職業だけで判断して頼るのを推奨するのは極めて危険だ。


たとえ優しい人に見えても。
優しい人だと思っていたのに、実は性虐待者だったということに陥ることが多い。
そして、加害者の巧妙な操作により、口止めされる。
自分は愛されているのだと思わされたり、特別な存在だと言い聞かされたりもする。
もしくは、自分には何か嫌なことをするけれど、多くの人に信頼され慕われているのを見ると、自分が間違っているのかという意識に捉われる。
それこそが加害者の狙いで、他の人の前ではいくらでも「ふつうの人」を装うことができるのだ。


愛情に飢え、愛されていることを欲していること、を利用されて近づかれることも多い。
愛されたいと思うのは悪いことではないのに、それさえも被害者のせいにされてしまう。
性の意味がわかっていないことを利用され、
されたことの意味がわかるころには、加害者はもうそこにはいない。



身近な大人だからといって、無条件に、教師や指導者の立場の人物を信じるのは無謀に等しい。
なんの審査もなく教師になっているのだ。(他の職業にも言えることだが)
彼らは、こどもに近づきやすいからという理由で、そういう職業に就いている。
真面目な人物とそうでない人物を見極めるのは難しい。たとえ人生経験の豊富な大人でも。
まさかあの人が。そう思われる人が性虐待をしている。
同じ人物が、何十年も。
訴えれば被害者が困ることを利用し、発覚しにくい状況を利用して。


教師による犯罪が多すぎるのは当たり前だ。


特に、こどもに対して性的な感情を持つことをタブーとさえせず、後押しする文化があり、その傾向は年々高まっている。



最近、教師による性犯罪があとを絶たないということで、東京都が、教員免許発行時に、犯罪歴について書面で提出することを義務付けることを検討しているということを知った。
今までしてこなかったこと自体がおかしい。発行するときだけでなく、毎年チェックをしてほしい。

もちろん、全都道府県で。
法曹も、医者も。全ての公務員も。それこそ、挙げていけばキリがないけれど・・・。そうすることで防げることも多いはずだ。


http://sankei.jp.msn.com/life/education/100104/edc1001040131000-n1.htmより転載


刑罰歴の審査を厳格化へ 教員免許発給で都教委


 東京都教育委員会が教員免許を発給する際、過去の刑罰歴の有無について本籍地の自治体が発行する公的な証明書の提出を求める検討に入ることが3日、分かった。昨年、執行猶予中の男性(25)が不正に教員免許を取得し、大田区の区立小学校で臨時教員として学級担任になっていた事案を問題視した。教員免許発給時には過去、禁固刑以上に罰せられたことがないとする宣誓書の提出が求められるが、真偽は申請者の自己申告のため、都教委は審査の厳格化を図りたい考え。都教委によれば、制度が導入されれば全国初。


 横浜市でも昨年4月、女子中学生の着替えを盗撮して逮捕された同市立中学の男性教員が、採用試験を受けた平成14年に別の性犯罪で執行猶予中だったことが判明。関係者によると、大田区の男性臨時教師も性犯罪で執行猶予中だった。


 教員免許は一般的に大学の教育学部などで教職課程を修めると都道府県教委から発給される。教員免許法では禁固刑以上(執行猶予中を含む)に処せられた者の取得を禁じているが、過去の刑罰歴は申請者の自己申告で判断され、「性善説による発給制度を改める以外に対策はない」と関係者は指摘する。


 都教委では現在、正教員採用候補者選考の合格者にのみ、本籍地の市区町村から刑罰歴を記載した証明書を提出させている。しかし、男性のように臨時教員や非常勤講師の経歴詐称は見破れず、今回の問題も男性が10月に正教員候補者選考に合格して露見した。


 臨時教員は、病欠や妊娠出産などで学校を休む教員の穴埋めのため短期採用されるケースが多いため、時間的制約から「採用時に煩雑な手続きを行うことは現実的でない」との声が大勢を占めているという。


 20年度の教員免許発給数は都内で4万1614人。都が発給した教員免許を“証明書”に塾講師や家庭教師をする者も多い。学校以外でも類似の問題が起きた場合、都教委の教員免許への信頼性が揺らぎかねないとの指摘もあり、幹部は「都が全国の先鞭(せんべん)を付けるべき」としている。


 高橋史朗・明星大教授は「団塊世代の退職に伴う穴埋めのため、臨時教員、非常勤講師を大量採用しないと学校が回らなくなっている。そのため臨時教員や非常勤講師の採用が野放しともいえる状況で、質の低下は否めず、今回の問題も起きた。教員免許の発給を含め、何らかの新しい対策が不可欠だ」と指摘している。


※このエントリは、教師による犯罪を主に念頭において書いたので、カバーしきれていない不十分な点があると思います。不快な思いをされた方には、余力がなく申し訳なく思います。

人は信じたくないものは信じない


性暴力被害者むけに相談を行っているところは少ない。
他にもアクセスする可能性のある場所というのはあるのだけれど。


そういった人たちのレベルの低さにうんざりする。
かなりストレスフルだ。
被害者であることを特に言っていないのだが、他国のデータを「こんなに多いはずないよね」と平然と言っている人を見ると唖然とする。
内閣府のデータも見ていないのだろう。


そういった人は、言っては失礼だが、勝手なきめ付けで申し訳ないのだが、
セクシャルな対象とされて困った経験がないのだろうと思う人に多い。


そんなひどいことが起きているのか、という驚きは、現実をつきつけてもなお、否定したがる人が多い。


すぐとなりに被害者がいる。
その可能性にすら思い至らないのだ。


よほど「私は性被害にあっています」といおうかと思うことが何度もある。
だんだんと、世間の無関心、興味関心を持ちたくない人に、苛立ちを感じる。


性被害の事実を知るつもりもないのなら、女性問題に関わっているのは何故だろう。
結局は自分の心に向き合えていないのだ。
DVくらいならできるかしら。
そういう意思が透けて見える。


本気で女性問題に関わるつもりならば、性暴力の問題は避けては通れない。
その覚悟がないのなら、その仕事をやめればどうかとさえ言いたくなる。



被害者であることをあきらかにしないと、事実を伝えても、「貴方がそう思うのを押し付けてはならない」となる。
被害者であることをあきらかにしても、こういう人たちは「たいへんだったのね」と表面的な寄り添いで終わりだろう。そして「どう接していいかわからない」と、煙たがるようになるのが手に取るようにわかる。



なぜなら本気で関わるつもりがないからだ。


同情なんていらない。
ただ事実を知ってほしい。
できれば一緒に考えてほしいけれど、それが無理ならば、せめて事実を受けとめてほしい。


それを言っても、そういう人たちはきっと「被害者最強」「被害者だから恨みつらみが激しい」と言うだけだろう。
私の前では言わないにしても。


そう言いたくなる自分の気持ちに向き合えていないのはどっちなのか。
知りたくないものを否定し、そして見てみぬふりをしてきた罪悪感からか。
相手がより正確な情報を知っているということへの嫉妬からか、自分が上に立ちたいというプライドからか。
被害者は弱い存在なのだと決めつけ安心したいからなのか。



無関心と否定は、実は、隠蔽に加担しているのと同じだ。
それを痛感し、どうしたらいいのか、私は頭を抱える。


本気で話せば分かってくれる人も中にはいる。
セクシャルな対象とされたことのない人はわからないかもしれないが。
(どうもそういう人は、セクハラ=モテ意識、というものが見え隠れしてしまう)



たぶんこの人は何らかの性被害を受けている、という方も中にはいらっしゃる。
性暴力の支援者の中には、性的な被害の当事者の方も実は多い。
とはいえ、女性はほぼ誰でも性被害をなんらかの形で受けてはいるのだが。



だが、表立ってはそう声をあげない。
今の私のように。


ああ、私はどうやって進んでいけばいいのだろう。


結局は立場を明らかにしないとまともに聞いてもらえない。
でも、そうすることで失うものが多すぎる。
一線を画されてしまう。


加害者が刑務所にいる間にだけ、たとえば生活圏でないところで話をしにいく、ということも考えた。



私は被害に遭ってから、回復してきた今でも、
どこか人とのかかわりの中で、一線をひいてしまっている自分に気付く。


結局はひとごとだから。ほかの人にとっては。
それを目の当たりにされるとつらいのだ。


苛立ちは、無関心な世の中に対して感じることで、より増幅される。
性暴力を滅多にないものとしたがる人たちは、性暴力被害者を「とても珍しい不運な目に遭った人」として、断絶することで自分を保とうとしている。
そういう人にいくら一生懸命言っても、相手が感情的になるだけだ。



私は自分の気持ちではなく、事実を伝えている。
それすらも、そう受け止めてもらえないのなら、どうすればいいのだろう。
自分のためではなく、他に傷つく人を増やしたくないだけだ。
自分におきたことはもう、どうしようもないのだから。


とても孤独を感じる。
きっと一生、この孤独感はきえないのだろう。
そういう自分とうまく付き合っていくしかない。



女性問題に関わっている人に対して思うことを書いたので、「女性問題」としていますが、性暴力は性差別によりおこるものだと私は思っています。
男性性被害も、性差別ゆえに、ないものとし消されてしまうのだと思っています。


本来、性暴力は、男性サバイバーからのメッセージで、
HEART様が
「性犯罪者は職業選択の時点から計画的であり、回避できない場所と相手を選び立場を利用して行われる理性的なものであり、性犯罪は男女の問題ではなく人間対人間の問題だと理解すべきだ」  と語ってくださったように、

人間の問題、社会の問題なのです。
性犯罪は、社会的な犯罪です。