言い表せない異常さ


隣の家の少女」を呼んだ。
途中何度もくらくらしそうになりながらも、一気に読んだ。

ひとつひとつの場面の状況、雰囲気、登場人物の性格、精神状態が細かく描写されていた。
自分が例えばこうすればこう反応があるというのがわかっているからこそ、身動きできなくなっていく心理状態、というものが、微妙なところまできっちり描かれていた。


主人公は、とんでもないことが起きているとはわかっている。それがエスカレートしていくことを恐ろしく感じていく。
だがそれに悩みながらも、切り離すことができない。日常の延長にあるため、ぷっつり切り離して、全くの異常なこととする区別ができない。


ひどい折檻(ようは虐待なのだけど)にしても、自分や自分の身の回りが経験していることとどう違うのか、明確にわからない。 ―これはその時代のアメリカの話だけではない。残念なことに。
主人公の少年は混乱し、その混沌とした暴力の中から抜け出せない。
だが人に知られてはいけないことという認識はある。
苦しみ悩み、打ち明けようとし、できなくて泣く。自分も手ひどい暴力の対象になることをおそれて、また自分のしたことを知られることへの恐れもあり、立ちすくんだまま疲弊していく。


暴力がどんどんひどくなっていくことをとめられず、信じられない光景が幻だったのか夢だったのか、そうあってほしいと悩み、そして被害者や加害者に、それまで自分が知っていたのと同じ人間的な反応があると逆に安心したりする。
おそろしいことに、この安心は加害者全てに共通しているため、次の残虐行為へとつながる。
非日常から日常へと戻ったと錯覚しどんどん感覚がおかしくなっていく。

その描写が小憎らしいくらい巧みに表現されていると思った。




事件そのものだけを切り取って説明すると。
こんなひどいこと、あるはずがない。
そう思う人は多いだろう。


日本で言えば、女子高生コンクリート殺人事件のようなものだ。
でも。
表に出てこないだけで、世間が思っているよりずっとこういう事件は多いし、こういうことをする「人間」が多いのだ。フィクションではなく現実にたくさん起きている。



同じ人間とは思えない。
私は、そう思っていながらも、それでも、うめきたくなるほどのぞっとするほどの邪悪さに接さざるをえなかった。
おかしいとわかっていたはずでも、何度もうちのめされた。ここまでひどいのかと何度も肌があわ立つような思いをした。
単なる非難や嫌悪の意味ではなく、「これは人間ではない」と痛感した日々を思い出す。
わかっていたはずでも、これでもか、これでもか、と、その異常さ、邪悪さ、をつきつけられ続け、それはまともに立っていられないほどの衝撃だった。あまりの邪悪さ。どす黒さ。
すさまじい悪意に、震撼し、あるいはもうあまりのひどさにこっちが壊れて、笑ってしまいそうになるほどだった。


加害者はきわめて異常な人間だった。(だがもちろん外から見た目にはわからない)


こうした「人間」が、実はさほど珍しくもないことを知っている身としては、
どれほど自己愛が強く、自分以外を人間と思うことができない「人間」が多く存在することを知っている身としては。
以下の描写が、そのことを、実はとても的確に表現していると思った。


このことを、真実味をもって理解できる人がどれほどいるか、わからないけれど―。




 何日もまえから理解しようとしていた感情に、とうとうぴたりと焦点があった。
 わたしは、12月の寒風のなか、裸で立っているかのようにふるえはじめた。なぜなら、見えたからだ。においがしたからだ。メグの悲鳴が聞こえたからだ。メグの未来が、わたしの未来がはるか先まで見えたからだ―そのような行為の結末がありありと。
 だが、それが見えているのはわたしだけだとわかっていた。
 ほかの連中は(中略)想像力を持ちあわせていなかった。
 まったく。ひとかけらも。彼らはなにも考えていなかった。
 自分以外の他人にかんして、いま現在以外のあらゆる事柄にかんして、彼らは盲目だった。空っぽだった。
 そして、そう、わたしはふるえていた。無理もなかった。なにしろわかったのだから。
 わたしは野蛮人にとらわれていたのだ。わたしは野蛮人と暮らしていたのだ。わたしは野蛮人の仲間だったのだ。
 いや、野蛮人ではない。それでは不正確だ。
 それ以下だった。
 犬や猫の群れ、それともウーファーがよくおもちゃにしていた獰猛な赤蟻の群れのほうが近かった。
 まったくべつの種のようだった。人間そっくりだが、人間らしい感情を理解できない知的生物のようだった。
 わたしをとりかこむ連中の異質性に圧倒された。
 その邪悪に。



 メグはルースの目をまっすぐに見つめた。そして一瞬、目に当惑の色をうかべた。いまとなっても、ルースに、どうして、どうしてなのとたずねているかのように。


「いまとなっても」の言葉が胸に痛かった。この気持ちはとてもよくわかる。
私も、どうしてそんなことができるのだ、の連続だったから。


そう、言葉にしてみるとシンプルすぎるが、あまりの異常性、理解の範疇をこえた行いに、当惑するのだ。
当惑と混乱の連続だった。
もちろん怒りも悲しみも絶望もあるが、すべてその異常性、邪悪なものが原因だ。
想像を絶する異常性と関わらざるをえない苦しみというのは、言葉にするのは難しい。
つきまとわれている間も。加害者が逮捕された後、起訴され裁判となったときも。そしてその後さまざまな事実を知ったときも。
知りたくもないのに、さまざまな側面を知る羽目になった。


人が人でなくなることは、実は身近だ。
力ある者が、弱い者に残虐な行為をするというのは、簡単なことだ。鬱屈した怒りは弱い者へとぶつけられる。
そのことを私たちはもっと真剣に考える必要があるように思う。


異常者が一人いると、周囲にはどんどん感覚鈍麻がおきてしまい、最終的には殆どの人間がおかしくなる。
生きるか死ぬかの状況では、人間らしい心が失われてしまう。
戦争や強制収容所でおきるのは、まさにこれだ。



身近な例で挙げると(身近であってほしくないが)、たとえば、いじめなどがわかりやすいだろう。
ひどいとは思っていても、特に積極的に助けようとしてくれる人はまれだ。
今の小学校中学校高校でも、それは同じようだ。

いわく、
自分はただその場にいただけだ、
自分も他者をいたぶることで鬱屈したストレスが解消できた、
何もできないというあきらめと無力感、
何かしたら今度は自分に攻撃が来るという恐れ。
なんとかしたかったが、どうにもできなかった。
そこには様々な声がうごめいている。


いろいろな性格の人が、悩んだり苦しんだりする。
あるいは全く何も感じない。自分は無関係だという感覚にすがっている。
あるいは他人を傷つけることに喜びを見出したりする。



まともな社会規範を大人が作り、それを子どもが学べる体制をととのえることの大切さを改めて考えさせられる。
当たり前のことであるはずなのに、それがとても難しいというのは、悲しいことだ。



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精子あっての命です

 
「今クリニックで起こっていること ④やむを得ずの出産。」(河野美代子のいろいろダイアリー)
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7b14.html


で、コメントしている人がひどい。


河野様 今晩は。

「今クリニックで起こっていること」についての意見です。

大変デリケートな問題なので、コメントを差し上げるのを躊躇したのですが、先生が本気でこの問題をブログで取り上げておられるのなら、そのブログを読む側も本気でこのことを考える必要があると想い、コメントをさせていただきます。

鉄人の意見は「仏教」の考え方からのものだということをご理解ください。

まず「仏教」では「中絶」ということには、反対の立場をとっています。「中絶」が仕方がないこととされるケースは、母体が危ない場合のみ。それ以外のケースの「中絶」は、「仏教」の考え方としては、許されません。

その理由としましては、「仏教」の根本的な教義に「生き物を殺してはならない」というものがあるからです。

「仏教」では、人間の「生命の誕生」を、出産した時点ではなく、
「受精」した時点で見ています。

ということは、「受精」した瞬間から「人間としての生きる権利」
を持っていることになるのです。

「中絶」によりその「生きる権利」を奪うというのは、「意志」を持って「生きる権利」を断つことですから、結果として「殺人」になってしまうのです。

世の中で決めた法律というルールでは、場合によっては許されるのでしょうが、やはり「殺人」には変わりないのです。

何故「中絶」が許されているのでしょうか。妊娠した女性が、まだ中学生だから。父親が高校生だから。父親が誰だか分らないから。生まれてくる子どもには、何の責任もありません。

生まれてくる子どもより、中学生で母親になる女の子の将来が心配?その女の子の親の世間体が大事?学校の立場が大事?

大切な大切な「命」です。何と比べているのですか?比べられません。

「やむを得ずの出産」。誰にとってやむを得ないのですか。生まれて来た子どもが、大きくなった時「あなたをやむを得ず出産したの」と聞かされたら、その子はどう思うのでしょう。

予定はしていなくても結果として妊娠したのならば、その瞬間からその生まれてくる子の幸せだけを願うのが、人間としてのありかたであり責任だと思います。

確かに母親が中学生なら、経済的に育てることは不可能です。でも
その女の子の親までその責任を放棄するのですか。無事出産しただけでも「良かったね」って言って上げるべきです。

結果として妊娠したならば、大人はそれ以上責めない。責めるからより深く傷つくのです。

そして出産した中学生の女の子と、その親で大事に育てるべきだと思うのです。結局はそれで中学生の母親も生まれて来た子どもも救われるのだと思います。

それがかなわぬ場合は、先生がご尽力されている「養子縁組」が必要だと思います。それでその子が幸福になる可能性は十分にあります。

性教育」につきましては、学校にあまり過剰に期待するのはいかがなものでしょう。もちろん「性教育」の時間は必要ですが、所詮他人です。各先生方の性格もやる気もポテンシャルも違うでしょうから、何か問題が起きた時に、厳しく責任を追及されるとするならば、少し可哀想な気がします。

それよりもなによりも、やはり大切なのは学生の親でしょう。命がけで守ってやれるのは親しかいません。親には責任があります。それを学校のせいとか世の中のせいにしてはいけないと思うのです。

「中絶」を回避して「出産」した子どもや、父親のいない、父親が分らない子どもを、ものすごく可愛がるという例も枚挙に暇がないくらいあるものです。(鉄人の身近にもいます)

どんな形で妊娠したとしても、妊娠したならば、その生まれてくる子どもの幸せだけを願うのが、我々の責任だと思います。そのことが、ゆくゆくは中学生である母親の幸せにも繋がると思うからです。

仏陀は、「すべての生き物には、生きる権利があるのだ」ということを、極めて大切な教えとして説いています。

それは「どんな形で生を受けても、生きる権利がある」ことでもあります。

プロの先生に生意気な意見を申し上げて申し訳ありません。



投稿: 鉄人 | 2010年3月15日 (月) 00時24分

は??と思うくらいひどい。
悪気はないのかもしれないけど、その無邪気さがこわい。
考えてるようで何も考えていない。



ブログ主の河野美代子医師は、きちんとエントリたてて返信なさっている。


「今クリニックで起こっていること。 ⑥中絶は殺人?」(河野美代子のいろいろダイアリー)
http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-146c.html



それに対して、またおかしなコメントをしているのだ。
とっても既視感。



原理というけど、河野美代子医師の仰っているように、そのころは受精という概念もなかっただろうに。



「受精」した瞬間から「人間としての生きる権利」
を持っていることになるのです

受精しなかった精子に、人間としての生きる権利を与えてやれなくて申し訳ない、とは思ってるのか。思ってないだろう。



そう言うと、過剰な責任を押付けるな、とか、「オトコの本能は種まき」とか訳のわからない論理を持ち出すのだろうか。

現状、過剰な責任を押付けられてるのはやっぱり女性側なので、こういう人を見るとむかむかっとしてしまう。




ティッシュに向かって読経してろ、と言いたくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

セックスは暴力的なものではないです。私にとっては。

セックスは暴力的なものを含んでいるか
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100320/1269095203

への返信エントリ。


あれこれ考えが飛びすぎて、何日か考えてもうまくまとまらなかったので、ひとりごと的に書きます。
敬語とか気を遣う余裕がなくて申し訳ないです >大野さん。



気になったところをまず最初にお返事。



「セックスとはそもそも野獣のようなものだ」とか「セックスはある程度乱暴な行為」というような言い方で、自分の振る舞いを正当化し女性を批判する男が時々いて、大変に疲れるという話


ええと、男性だけじゃなく女性もいました。




槇村さとるの言葉を引用して書いている「セックスはとろとろに溶け合うもの」という表現に近いことは、自他の境が融解するような感覚として、セックスを語る時にしばしば言われているように思う。比較的多くの人(の中でも特に女性?)に共通する感覚ということだろう。


槙村さとる氏がそういう意味で言ってるかは手元にないのでわからないけど、

(槙村さとる氏はテンションの張り詰め方が文章に出てると私は感じて、
 安定しているときとそうでないときが文面からびしばし伝わってきてきつかった。
 ので手元に本はない。 彼女には共感できるところもあればそうでないところもある。
 なので私は槙村さとる氏の熱狂的ファンというわけではない。そういう人もいるようだけど。)



私にとっては、自他の境が融解、というよりも、自分がとろとろになる、という感じです。
相手もそうなんじゃないかと思う。(相手にもよるしコンディションにもよると思う)
で、二人そろってとろとろになる、という意味で、とろとろに溶け合うという表現を選んだ。


でも、これはベストな状態で、というのもあるので、そこまでいかないというか、
とろみかげんはいつも同じではない。



あと、
「わからない」と言ったことに対して具体的に教えてくれるのならありがたく拝聴するけれど、
抽象的にSMだと、フロイトも言ってるとか言われても、脱力してしまう。
よりによってフロイトだ。
フロイトの罪は大きい。フロイトによる性被害の捏造のために、いまだにファンタジーと思っている医者も特に日本には多い。
ありとあらゆる本に、なぜ性被害は信じてもらえないのかというところに、フロイトが必ず登場するけれど、
たとえば精神科医のハーマンの「父-娘 近親姦―『家族』の闇を照らす」にも、そのあたりよく書いてある。
あと、キンゼイの動揺っぷりと隠蔽操作も書いてある。



私は、被害前からフロイトばかじゃないのと思っていて、
被害に遭ってから、フロイトにより大きな迷惑をこうむった。好き嫌いのレベルを超える。
(このことはまたいつか書く)



ペニス願望で悩む女性はいるのか?とフロイトの説を私は鼻で笑ってたので、
フロイトが発見した中に「性についての重要な知見がある」のは重々承知だけれど、
ほかにもフロイトはおかしなこと言ってるという例で出した次第。
性被害の捏造と直結しているし。
大人の女性にはないというのはフロイトも言ってるけど、
そもそもペニス願望は小さいときにも私にはなかったと自信もって言えるので、
もともと「ない」という意味で、現在「ない」という意味ではないです。


私はフロイトの話はおなかいっぱいと言ったので、さらに大野さんにフロイトの話をされるとは思ってなかった。
フロイトに関してはまた別の機会に。他の人にもちゃんと知って欲しいし。




ええと、本当に、セックスは乱暴な行為というのがわからない。
というのは、


私は、
キスしたり、ハグしたり、
相手の胸に顔をおしつけたり、首やら背中に腕を回して抱きついたりして、
心から安心する、ああずっとこのままでいたいなあと思うくらい安心する相手、
に対して、その延長でセックスという行為があるから。


よく性犯罪被害に遭った人は男性恐怖症とかセックス恐怖症というイメージがあるけど、
そういう人もいるのかもしれないけど私はそうではない。
それに恐怖や嫌悪はないけどただ単にしたくないという人もいるだろう。

(むしろ私は、そのときそのときの困ったときに、助けを求めることができるものを持っていて、
 そして実際的な面で助けてくれるのは男の人だったということもあると思う。
 でもまあこれは被害に遭った時期にもよるし環境にもよると思う。
 たとえば今だったら女友達の方が頼りになる。 )


私の場合、いざ、そのモードになってから怖くなるというのは殆どたぶんない。
なぜなら安心できる相手だから。心を許している相手だから。
これがまた微妙なところで、説明しづらいのだけれど。



たとえちょっと思い出した、
というほど明確に思い出せるほど記憶にないが(これぞ抑圧された記憶)、
イメージのようなものでなんとなく落ちつかないことはたまにある。
でもこれは相手とかセックスに原因があるんじゃなくって、たいていその前に何か動揺するようなことがあったから。
んでもってその動揺を消すために私がいちゃいちゃしたがるからおかしなことになる。


そういうときにしても、
だからといって相手を加害者と同一視して突き飛ばしたり、がたがた震えたりというような感じにはならない。
ただ、顔はちゃんと見えると安心するかな。
やたら私が相手の顔を見たがるときは、若干無意識のどこかで怖いという思いがあるんじゃないかと思う。
ぼーっとしてたり私がそういう変な行動をするときには、なんかコンディションが悪いんだなという感じで相手も理解している。
いちゃいちゃしている中で、精神的にコンディションがよくなることもあれば、なんかそのままで中途半端になることもある。
でもまあ相手もそういうことはあるし、お互い様ということであんまり気にしないようにしている。



ただもちろん男性に対する意識とか、セックスに対して、全く葛藤がないわけではない。


たとえば、日常生活で見知らぬ男性には最大限の注意を払っている。
私は、超「自衛」している。
たとえば宅急便はチェーン越しに伝票を受け取ってサインして、荷物はドアのところに置いてもらう。
ガスの点検とか、家具とか家電の運び込みとかで、男の人が家に入るのはものすごく苦痛。
全ての部屋の窓を開け放つ。都合のつく女友達がいたら家に来てもらう。
車に乗るときは周囲を確認してすばやく乗り、すぐにロック。
降りるときもものすごく神経とがらして警戒している。


困るのは日常接する人たち。
今は働いていないので本当に楽だけど、セクハラのない職場なんてあるのか?とはなはだしく疑問。
田舎のセクハラ意識は本当にひどい。かといって都会はもうこりごりなのでもういや。
セクハラ危険度はさがっても満員電車の痴漢に耐えられない。


こっちが全くその気になれない相手に性的対象として見られて、狙われてたり、狙われてるのかどうかわからないという状態はものすごくこたえる。
(ちなみに、あえて「狙う」と書いたけど、この言葉を使うのは私ではない。)

自意識過剰と思われようが、何らかの不穏なアクションがあると、非常にストレス。発狂しそうになる。
性的対象として見られるのを喜びと思っている女性には理解できないらしいけど。
「一度お願いしたい」なんて男性陣がふざけて、とはいえ、皆で言ってたと知ったとき、即仕事やめたくなったことがある。
そんな環境で、二人きりになることがあると、本当に怖い。
世間はありえないと思ってるだろうけど、職場で襲われるというのも実際にある話。
ふつうに暮らしているように見える人が、実は裏社会とつながってたりするのもよくある話。
前科もちとかも多いんだよ世間が思ってるより。


あと、例えば好きで付き合ってる相手にも、喧嘩しているときとか、険悪なとき、
つまり私が相手に対して好感情を抱いていないとき、
無理やりされたらどうしようという恐怖があった。

過剰に怖がる私に、相手がいらだつと余計に怖くなってたりもした。
力じゃかなわないのがわかってるので、この人は絶対に私が嫌がることをしない、というのを、頭ではわかってても、
もしそうなったらどうしようという不安がどこかにある。そのときこそ耐えられない、生きていられない、って思う。
でも何度も自殺に失敗してるので、自殺に失敗したらそれこそまた大変なことになるのも経験しているので、本当に八方ふさがりなので、そういうことをあれこれ考えるとウツっぽくもなる。


今のパートナーに対しては、無理やりされたら、という恐怖はなくなった、と思う。
けど、
父がDVだったのもあって、男の人が怒るとわけもなく怖い。
怒鳴られると頭が真っ白になるし、殴られるんだと思ってしまってとても怖い。
お願いだから怒鳴らないでというとき、ぼろぼろ泣いてしまうし、それが言える相手じゃないときは、別れるしかない。
実はつい最近、同居人が、出会ってから数年たつのだけど、初めて怒鳴ったのでものすごくきつかった。
本気で別れるしかないと思った。でもやっぱり私にとっては大事な人なのだ。


ここまでつらつら書いてきて、
たぶん、私がパートナーに選ぶ男性は、
私が嫌がることを絶対にしない、というのが第一条件にあるんじゃないかと思った。

(あと、父が結構最悪な人だったので、
 私にとってはその他の男の人がだいたいどの人も相対的にまともなのかもしれない。
 ちなみに加害者は人間じゃない。本当にクズだ。人間の皮をかぶった、それこそ獣だ。
 言葉が通じないのだ。異常思考回路だ。)


収入とか容姿とかはどうでもいい。
安心して一緒にいられるかが全て。
あと、私がいいと思うもの、いやだと思うもの、そういうのを否定しない相手。
邪魔したりしないで、応援してくれる人。
私がいいなと思うものを相手もいいと思うような、価値観や世界観がある程度共通している相手。


とはいえ、
これは失敗を重ねていきついた結果なので、
失敗過程の中では、DVチックだったりモラハラだったりな男の人ともお付き合いしたこともある。
お付き合いとまではいかなくても(むこうはどう思ってるかは知らない)セックスしたことはある。
これ本当に、男の人みたいな言い方なんだけど、セックスすると、性格がわかる。
本質が見える、というのかな。うまくいえないけど。


私がいいなと思い、安心してセックスできる相手は、「出す」ことを目的にしてない気がする。
もちろんそれもあるのだろうけど、それだけじゃないよ。


体だけじゃなくて心も愛されてる感じがするし、私もそう相手を思ってる。
だからいろんな話をする。


そういえば、「出す」ことを目的にしていただろう人は、セックスのときにいろんな話をするのを好まなかったなと
私の数少ない経験からすると思う。「性欲をぶつける」という言い方もしてた。
んでもって、身も蓋もない言い方をすると、下手だった。


私は、性格が合って本当に安心できる人は、今の同居人含めて二人出会った。
一人は確実にもててたけど、同居人はモテとは無縁なんじゃないかと思う。
けなしてるわけじゃなくて、モテにこだわる世間が理解できないのでついでに書いただけ。
その次レベルくらいに性格が合う人も一人いたけど、その人も優しかった。この人もモテとは無縁。無縁すぎるほど無縁。
そういえば、彼らは皆、女性に囲まれて育ってる。
なんかやたらと女性に慣れてる。もてるとは別の意味で。


私が安心できる男の人と一緒に暮らすのは、一人だと怖いからというのもある。
一人で暮らしているとお風呂に入るのも怖い。
誰かが一緒に住んでくれていて、その誰かがある程度腕力がある、というのは本当に安心する。



セックスは乱暴な行為、とか言ってる人は、
抱き合っていちゃついてるとき、「乱暴な気持ち」になって、いざ、ということになるわけ?
過去にそういうことを思っているだろう相手もいたけど、私はその人とはあんまり性格も合わなかった。
その人は「互いの了承のもとに(とはいえ私は満足してないし不満ばかり)」「相手に性欲をぶつける」と思ってた。
私にはその人くらいしかそういう経験がないのでわかんない。


というわけで、私はほんとうにわかんない。




性被害、つまり性暴力と、セックスは、全く別物。
私にとっては。全く違う。



ただこれは細かい状況とかにもよるのかもしれないと自分でも思う。
このあたりはちょっと頭痛がするのでうまく書けない。
いつか書けたらいいなと思う。





最後に。

大野さんへ。

特に大野さんに対して、このエントリに対する返信を求めているわけではありません。
たぶん、私と大野さんは価値観や性格が違う面が多いのではないかと思っています。
どちらがいいとか悪いとかそういうものでもないと思っています。




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「男をわかってない」と言われまくる件

ここ数日、あちこちで(といってもネットだけど)、
なりゆき上、性犯罪についての出前講座(?)をしてましたとさ。



さすがにちょっと疲れた。



その中でちょっと気になったこと。

「男の性欲をどうしてくれる!」
「あんたは男ってものをわかってない」
等々を、一部の“オトコ”な方々にさんざん言われました。

さらには「男は獣なのだ!(キリッ)」とさえも。…ああ既視感が。




で、こういうやりとりの中で、私はある重大な発見をしたのでした。


それは、

「男はこういうものなんだ」という人たち(男女問わない)は、
では女性はどういうものなのか、というのをわかってない。わかろうとしていない。
ひたすら「男とは」を説いてくるのみ。

自分の知っていることがすべて。
んでもって「わかってない女にわからせなくては!」という焦りがあるように感じる。
懲らしめてやらなきゃ、みたいな空気を感じる。


もちろん、こちら側の主張を聞こうとしない。
性暴力がどういうものなのか、どれほどひどいものなのか、ということもわかろうとしないし、聞く耳持たない。
被害者なんだから大げさに言っちゃって、くらいに思ってるし、ものすごく被害者を馬鹿にしている。
被害者が論理的に話すということ自体が気に入らないみたいで、必死でこっちを「下」に置きたがる。
とことん上から目線でいようとする。



さらには私は女性全体を代表しているつもりはなくて、
男性が悪気なく性欲ある (そして女性にもある)というのは理解しているつもりで、
その上で話をしているのだけれど、
そうなると今度は
「パートナーのいる女性なら、わかってるはず」と、
その人たちの考えるところの“共通認識”を持ち出されごり押しされる。
(あんた、わかってるやろ?なにかまととぶってんのや、みたいな感じ)



以下、その内容。あちこちで拾ったけどおおむね共通している。

・セックスとはそもそも野獣のようなものだ
・セックスはある程度乱暴な行為



どうも違和感を感じる。
そういうものだけじゃない。


というと、またまた、「ひとむかし前の少女マンガみたいなこと考えてるんでしょ、きゃはは」
とか言われそうだけれど。


そうじゃなくって、本当にリラックスしてお互いをいつくしむというか、
あんまりうまく言えないのだけれど、
槙村さとる氏が「セックスはとろとろに溶け合うもの」というようなことを言っていたけど、
自分じゃうまくいえないので、その言葉に近い立場だと私は思う。
つまり、そういう認識を持ち、それを好む人もいるということ。


だから私は「乱暴な行為だ」と言われると、えええーーーって思うのだ。
そして私だけじゃなく、男性も女性もそういう認識の人は確かにいる。



勝手に一般化してるのはどっちだよ、と思ってしまう。



ただ、こういう意識の面でやりとりしていて、
男性の方が、性犯罪に関する正しい知識を持つと、理解が早いのかなと思うフシが結構ある。

むしろ、
「そんなことに目くじらたてちゃって」「女性がみんな口うるさいと思われるじゃない」という女性の方が結構たいへんなのかもしれない。
私は女性全体を代表しているつもりはないのに。


性暴力に理解のある男性もいれば、理解のない女性もいる。
ただ、理解のない女性からの言葉の方が傷が深い。
私はね。



結局、性差別をどれだけ内面化しているかという話に落ちつくような気がする。
(もちろん私も含めて)


二次加害は、まさに性差別意識からおこる。
「男とはこういうものだ」
「女がそういうことをするからいけないのだ」と。


共通しているのは、すべて被害者である女性に責任転嫁するということ。
そして男性の性被害に関しては、女性以上に理解されないし、ないものとして扱われがちで、「男なら」「男だろう」の抑圧はひどい。
※参考:男性サバイバーからのメッセージ



「男とはこういうもの」「女とはこういうもの」という意識はどこからきているのだろう。
リアルの知り合いの中では、育った環境がやはり大きい。
兄弟姉妹がいるかどうかでも違うように思うし、恋人や友人などで、どういう人と付き合ってきたかでも違うのかもしれない。
とはいえ認識は日々変化していくのだろうけれど。



さらに気になっているのは、
日本のドラマ映画や漫画フィクションと、欧米諸国では、
男女の絡みというかキスシーンやベッドシーンの描き方が違うということ。明らかに。



・・・とりあえず柔軟でいたいと思う今日この頃。



<参考>
■Gazing at the Celestial Blue■
「表現の自由」は誰のものですか?

■はてこはだいたい家にいる■
表現が規制されるのはその表現がすでに暴力で脅威だからだYO!

集団のなかで起きる暴力

たとえばセクハラやパワハラモラハラなどは、ほとんど誰もが経験したり見聞きしているのではないだろうか。


ただ目の前でおきていないことを人から聞いた場合、内容が信じられないほどひどい場合、
どうしてそれほどひどいことがどうしておきるのか?大げさに言っているのではないのか?
と思ったことがある人は多いのではないだろうか。



性暴力も、DVも、虐待も、戦慄するほどの内容ばかりだ。
正常な感覚を持っている人からすると、どうしてそんなにひどいことができるのだ?
歯止めとなるものはなかったのかと疑問を感じるのが当然の内容。



特に複数の人間が関わっている中で起きる暴力、黙殺される暴力には、そんなにも異常な人が、偶然、集まっているのはありえないのではないかと疑問を抱かれる。
そのために、はては被害者にこそ問題があるのだと思われたりもする。


それこそが加害者の狙っていることなのだ。
加害者の思うツボとならないよう、暴力の構造を多くの人に知ってほしいと思う。




 自己愛的な人間―すなわち、第1章で述べたモラル・ハラスメントの加害者になるような人間がある集団に入ってくると、その人間は集団のメンバーを惹きつけ、従順な人々から順番に自分のまわりに集めていく。そこでもし誰かがそれを拒否すると、拒否した人間は身代わりの犠牲者(スケープゴート)にされて、集団から排除される。こうして、そのスケープゴートになった人間を攻撃したり、その悪口を言ったりする形で、その集団のなかにはひとつの社会関係ができあがる。この時、集団は、他人を尊重することを知らず、平気で人を傷つけることができるモラル・ハラスメントの加害者に影響されて、そのやり方に従うことになる。といっても、メンバーのひとりひとりはそれほど道徳的な感覚を失ったわけではない。だが、ためらうことを知らない人間のもとで、批判の能力を失ってしまうのだ。

 こうした<権威への服従>について研究したアメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムは次のような方法である実験を行なった。《実験室に被験者を呼び、実験者の指示によって良心の痛みを感じるような行為をしてもらう。それはごく軽度のものから始まって、だんだん重度のものに変わっていく。実験の目的は、実験者の指示に対して、被験者がそんなことをするのは嫌だと言わずにどの行為までをおこなうか、それを知ることである》。この実験の結果、ミルグラムは次のような結論を出した。《このことからすれば、ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになるだろう》。このことはクリストフ・ドゥジュールによっても確認された。ドウジュールは<社会のなかで悪は一般化される>と指摘している。実際、世のなかには自分の心の平衡を保つために、上からの権威を必要とする人々がいて、そういった人々は上からの指示があれば悪いことでも平気で行なうようになる。モラル・ハラスメントの加害者はそういった人々の従順さを利用して、被害者に苦しみを与えていくのである。

 企業におけるモラル・ハラスメントの加害者―すなわち強度に自己愛的な人間の目的は、権力を手に入れて、どんな方法を使ってもそれを維持することであり、また、それによって自分の能力の欠如を覆い隠すことである。そのためには出世の妨げになる人間や才能にあふれている人間を取り除く必要がある。自分よりも弱い者を攻撃して満足するのではない。相手が身を守ることができなくなるように、邪魔になる人間の力を弱めていくのだ。そこが権力の乱用の場合とはちがうところである。

 標的にされた人間は恐怖から加害者に従うようになる。いや、服従するようになることさえある。また、同僚たちもやはり恐怖から見てみないふりをして、加害者の攻撃に口を差しはさもうとしない。これは<各人が己のために、神は万人のために>(それぞれが自分のことだけ考えて、他人のことは神さまに任せておけ)という個人主義が支配する世界だ。加害者が上司であった場合、まわりの人々も被害者に同情を示したら、今度は自分が非難されて解雇の対象になるのではないかと恐れて、行動を起こそうとはしなくなるのだ。会社では波風を立ててはいけない。ただ会社のことを考え、ほかの人とはあまりちがったところを見せてはいけないのである。





「モラル・ハラスメント 人を傷つけずにはいられない」p131〜132  ※強調は引用者

 



「ごく普通の人々でも、行為を重ねていくうちに次第に良心の呵責がなくなり、最後には恐ろしい破壊行為をするまでになる」というのは、たとえば戦争などでもよく見られることだ。
非行グループや暴力団など、いろいろな犯罪集団のなかでもまさに同じことがおこっている。


日常生活のなかでも、実はたくさん起きている。
セクハラも、単なる性的な嫌がらせだけでなく、精神的にじわじわと追い詰め、被害者に自分がおかしいのかと思わせたり、より自分を責める方向に持っていく雰囲気や空気というものが存在することが多い。
皆、忍耐しているのだというのもある意味では「正しい」現実ではあるけれど。


感覚を麻痺させ耐えることができないほどひどい暴力もある。
心ある人はその中に最後まで正常心を保つことはできず去り、残って偉くなるのは、まさにモラハラ加害者のような人物。
そういう組織ばかりとなってしまう。
社会全体がモラハラ加害者を養成しはびこらせるようなシステムとなってしまっている。



自分が悪いのではなかったのだ、自分に原因があったわけではなかったのだ、と思えるのは、
横のつながりが持て情報を共有することから始まるのだと思う。
だけれどそれは、あまりにひどい被害に遭った、多くの被害者が出た状況になったということでもあるのだ。


長いこと時間が経ち、変化したこともある。
小さいレベルでは、おかしいと思う人が他にもいたのだと少し風向きが変わったのを感じる。
報いを受けている、という因果応報ということよりも、
もっと現実的に、情報が蓄積され共有されていったことが大きいと思う。
情報を持つことは武器になる。




それにしても、
肝心なところが一番おかしいんだよなぁとつくづく感じてため息をついてしまう。
慎重に取り扱わなくてはいけないことが毎日の日常となることで、感覚鈍麻がおきる。
感覚鈍麻はおそろしい。
日々の業務に追われる中で、人を人として扱えなくなっているのではないだろうか。


それは警察にも思うこと。
検察にも。裁判官にも。
報道にも。


言ってもなかなか信じてもらえないほど、ひどい状況だ。
もっと自らの仕事に責任を感じてほしいと切に思う。



こちらができることは、情報を集め発信し、多くの人に共有してもらうこと。
息切れしないよう、自分を守りいたわりながら。



モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられないモラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない
(1999/12)
マリー=フランス イルゴイエンヌ

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セクハラ


働くとセクハラをされる。
された。されまくった。



されたセクハラの内容を、まともな人が聞けば「ネタ?ねえ、ネタでしょ?」と笑って言われるくらい、おかしい。
ネタではないと知ると、皆一様に押し黙るくらいのひどさ。


おかしな人というのは実際にいる。
まともな人の理解の範疇を超えることをしてくる。


まともな人は、自分が被害者になるか目の前でおきない限り、理解できない。
セクハラは、だいたいが、人目につく所で大っぴらにはしない(そういうセクハラもあるが)。

まとも度が低い人は、自分がかわいいので、自分に面倒がふりかからない限り、見なかったこと聞かなかったことにする。
まともでない人は、自分もいい思いをしたいので、加害者に加担する。


まともかどうか、というのは、
つまり、自分さえよければいいか、ということの度合いでもある。


こどものいじめと同じ構造。


事実を伝えることで、より状況がひどくなることをおそれて、黙るしかないことも多い。

性分化疾患


性分化疾患についての記事(毎日新聞)をメモ。


無知な自分を恥ずかしく思います。
性に関することを考えていると、避けては通れない問題。
言葉にならないくらい、たくさんのことを考えさせられました。


思うことはたくさんあるのですが、簡単に言葉にできない、そう思いました。
ただ、いろんな生き方が、いろんな人の存在が、差別や偏見なく、受け入れられるよう、社会のあり方を変えていくことが大切なのだと思います。



6回シリーズなので少し長いですが、ぜひ読んでください。



http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040001000c.htmlから転載(魚拓)

境界を生きる 性分化疾患/ 1 診断「100%の正答ない」




男か女か。人生を左右する重大な決定が新生児医療の現場で揺らいでいる。染色体やホルモンの異常により、約2000人に1人の割合で発生するとされる性分化疾患。医師たちはどのような判断を迫られ、患者や家族はどんな思いを抱えているのか。【丹野恒一】



 ◇染色体、生殖能力…要因複雑/ずさんな性別判定、今も



 「あの子、女らしく育ってくれるだろうか」。東京都世田谷区の国立成育医療センター。性分化疾患の研究・治療で国内をリードする一人、堀川玲子・内分泌代謝科医長は、センターが開所した02年から診察を続けている一人の子の成長がずっと気になっている。


 その子は生後約1年で、地方のある大学病院から「陰茎(ペニス)の発達異常がある男児だが、男性ホルモンをいくら投与しても大きくならない」と紹介されてきた。しかし、詳しく検査してみると染色体は女性型のXXで、子宮や卵巣もちゃんと備わっていた。男性ホルモンの過剰分泌が原因で女性の陰核(クリトリス)が陰茎のように肥大する病気と分かった。いわば、女の子が無理やり男の子にされようとしていたのだ。


 両親と話し合い、性別と名前を女の子に変える法的手続きを取ることを決めた。家族は周囲にその事実を知られぬよう、県内の別の市に転居した。堀川医師は今も定期診察で年に2回その子に会うが、言葉遣いや様子は男っぽく、遊び相手も男の子ばかりという。「不必要で過剰な男性ホルモンを投与したからではないか」と心配でならない。


 こうした事例はのちも続く。今年初め、別の大学病院から紹介されてきた子にも外性器の発達異常があった。判断が容易な症例ではなかったが、基本的な染色体検査さえされぬまま「どちらかというと外性器の形状が女に近い」という理由で女性と決めつけられていた。センターでの検査の結果、染色体は男性型のXY、不完全ながらも性腺は男性ホルモンを作っていた。


 堀川医師は「どちらの例も、慎重に診断していれば、最初に選ぶべき性が逆だったはず」と表情を曇らせる。


    *


 医師の間でもタブー視されてきた性分化疾患が今以上に闇に置かれていた時代、患者はもっと低レベルの医療を受けざるを得なかった。日本小児内分泌学会性分化委員長の大山建司・山梨大教授は「男性器を形成するのが技術上困難だった80年代ごろまでは、医師の間では当然のように『迷ったら女にしろ』と言われていた」と打ち明ける。


 特に、性分化疾患の中でも約2万人に1人と発生頻度が高く、外性器からでは男女の区別がつきにくい先天性副腎皮質過形成の場合は「当時の性別決定のうち、約15%は誤りだったとも言われている」。


 ただし、原因が解明されてきた現在でも、容易には診断がつかないケースがある。染色体の異常の程度やホルモンの働き具合などが複雑に絡み合い、同じ病名がついても症状が全く違ってしまう。「どちらかの性で生殖能力があるか」や「将来、男女どちらだとより充実した性生活が送れるか」など、何を優先するかでも選ばれる性別は変わってくるという。「どうしても判断に迷うと、重圧で押しつぶされそうになる」「判定にはストレスを伴う」。ベテラン医師たちからもそんな本音が漏れる。


 「この疾患ならば男性、これなら女性にするのが正しいという100%の正答がない。それが性分化疾患の難しさ」と大山教授は話す。


    *


 大阪府和泉市の府立母子保健総合医療センターでは90年代初め、あるトラブルがあった。


 性別の判定が難しい子が生まれた。主治医は親に性別を決めるまでにはまだ時間がかかると説明したが、祖父は「性別がはっきりしないと田舎はうるさいので困る」と迫り、父親は「外に出せないような子だと近所でうわさになっている」と訴えた。


 医師はせかされるように、この子は女性であると決めた。しかし、両親は出産直後、助産師が軽率に「とりあえず男でいきましょう」と言うのを聞いてしまっていたため、診断への不信感を長く引きずることになった。


 同センターではこの問題をきっかけに、性分化疾患の疑いがある子が生まれたときの医療体制を決めた。子どもの症状を一人の医師が判断するのではなく、小児科や泌尿器科、産科、新生児科など複数の医師が集まり、それぞれの分野の経験と知識を出し合って結論を導き出す。


 同時に、親に説明する際の留意点もまとめた。泌尿器科の島田憲次主任部長は「言葉の使い方一つで、親の受け止め方は違ってくる。『だと思う』といったあいまいな言い方はしないよう申し合わせた」と話す。


    *


 こうした取り組みはまだごく一部でしか行われていない。堀川医師は訴える。「顕在化している問題事例は氷山の一角に過ぎない。不適切な診断を受けたまま、つらい人生を歩んでいる人がたくさんいるだろう。医師は子どもたちの一生を決める責任を背負っている。まずはその自覚が必要なのです」=つづく(次回は性分化疾患の当事者の話です)


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 ◇性分化疾患



 人間は一般的に、外性器・内性器や性腺(卵巣、精巣)、染色体のすべてが男女どちらかの性で統一されているが、それぞれの性があいまいだったり、食い違って生まれてくる病気の総称。出生後、男女どちらが望ましいかを決めた後、ホルモン治療や性腺の摘出、外性器の形成手術などで、選んだ性に近づけていくことが多い。不適切な判断を減らすため、日本小児内分泌学会は10月、初の症例調査に乗り出し、性別決定までのガイドラインを策定する。




http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040002000c.htmlから転載(魚拓)


境界を生きる 性分化疾患/2 揺れ動く心と体


◇染色体混在、男性で出生届/20代…やっと女性化治療



 心と体の性が一致せずに悩むのが性同一性障害。混同されやすいが、性分化疾患は体の性を決めるいくつかの要素(遺伝学的性、外・内性器の性、性腺の性など)が一致せず、それぞれが中間的だったりもする。心も体も男性と女性の間を揺れ動き、生きづらさを抱える人もいる。


 「よく隠し通せたね」。関東地方でIT技術者として働く真琴さん(25)=仮名=は時々、高校時代の女友達にそう言われる。当時の真琴さんは男子生徒。本当のことを打ち明けられたのは卒業してからだった。「男女どちらかにはっきり属していたら、友達をだますようなことをしなくても済んだのに」。罪悪感に苦しんだ思い出がよみがえる。


 真琴さんの体には卵巣や子宮があるが、染色体は女性型と男性型が混在する「XX/XYモザイク型」。小さな陰茎(ペニス)があったためか、両親は男性として出生届を出し、男の子用のおもちゃを買い与えた。


 しかし成長するにつれ、男の子の輪に入りづらくなった。中性的な雰囲気があるのか、小学校では「おとこおんな」といじめられた。


 5年生の春、信じられないことが起きた。体育の授業中、足を伝って血が流れているのを女子に指摘された。生まれつきの異常があることは親から少しは聞いていたが、まさかの初潮。「ばれたら、いじめがひどくなる」。男子から「女みたいなにおいがする」と言われ、トイレ用の脱臭剤を下着に入れて登校した。


 その半年後、朝礼で貧血を起こして倒れ、大学病院を受診した。そこでの事は今も深い心の傷になっている。


 大勢の医師や医学生に取り囲まれる中、体中を検査された。男子学生たちが「インターセックス性分化疾患)ってこんなふうなんだ」と、好奇の目を向ける。「私は見せ物じゃない」と言いたくても言えず、勇気を振り絞って検査の目的を尋ねた。返ってくるのは医学用語ばかり。「黙って従え」という意味と受け止めた。


    *


 中学に入ると、体力が男子についていけなくなり、親と医師の薦めで男性ホルモンの投与を受け始めた。どんどん男っぽくなる体が嫌だったが、喜ぶ両親を見ていると、治療をやめたいとは言い出せなかった。


 心と体が乖離(かいり)し、気持ちをどう保っていいのか分からない。でも生理が来ると落ち着いた。大きくなった胸にさらしを巻いて隠していると「そんなことで悩むひまがあったら、受験勉強しなさい」と親に言われ、手術で胸を小さくされた。「また一つ、大切なものがなくなった」と思うと、病室のベッドで涙があふれてきた。


 同級生たちに恋人ができていく。「異性と付き合うって、どんな感じだろう」。高校で女子から告白され、受け入れてみたこともある。自分が男か女かで揺れていては、長続きするはずがなかった。


 大学に進んでからはホルモンバランスが崩れ、1年半の入院と自宅療養を強いられた。


    *


 随分と遠回りをしたが、真琴さんは最近やっと女性化のための治療を始めることができた。通院していた病院で出会った友達の一言があったからだ。「生きたいように生きなよ」。友達はその後、別の病気で亡くなった。


 10年近くにわたる男性化治療で外見は男性に近づいてしまったが、初対面の人に女性とみられることが増えてきた。ふと気づくと、かつてのように性別のことばかり考えていない自分がいる。そのことがうれしい。【丹野恒一】=つづく(次回は性分化疾患の子を持つ親の話です)


http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040003000c.htmlから転載 (魚拓)

境界を生きる 性分化疾患/3 子の性別、親が選んだ

 
◇食い違う診断、病院を転々/不安、自責…「娘は私を恨むだろうか」


 東日本に住む敏子さん(37)=仮名=が長女美咲ちゃん(4)=同=の異変に気付いたのは生後5カ月の時だった。オムツを替えていると、陰核(クリトリス)がそれまでより少し大きくなっていた。「赤ちゃんって、こんなものかな」。それ以上深くは考えなかった。


 その後、美咲ちゃんが風邪で小児科にかかった時、念のため医師に尋ねた。答えは「一人一人違う。いくらでもあること」。医師が言うのだから大丈夫。そう自分に言い聞かせた。


 だが生後10カ月のある日、平穏な暮らしが揺らぎ始める。朝、かつてかかったことのある総合病院の小児外科を受診すると、医師が少し焦った様子で言った。「(陰核が)以前はこんな大きさじゃなかったはず。午後、小児科を受診してください」。胸がざわついた。


 昼休み、待合ロビーで長椅子に腰掛けていると、先ほどの医師が静かに隣に座ってきて、こう告げた。「娘さんはもしかすると男の子かもしれませんね」


 傍らで、つかまり立ちできるようになったばかりの美咲ちゃんが、窓から差し込む冬の日差しを受けて無邪気に遊んでいる。「この医師はいったい何を言ってるの?」。言葉が出ない敏子さんを残し、医師は立ち去った。


 そして午後。診察室に入ると、小児科の部長が待っていた。思わず身構えたが、部長は自信なさげにパソコンに向かって症例を検索するばかり。そうこうするうちに血液検査の結果が出た。「問題なし。心配しなくていい」。ただし、陰核を小さくする手術だけは必要と言われた。


 食い違う診断。安心できたと思うと突き落とされ、再び安心し、そしてまた……。医療への不信感が芽生えた。


 その小児科部長に紹介された大学病院でも同じだった。初診で「異常ないと思います。念のため染色体の検査をしましょう」と笑顔を見せた内分泌医が、1カ月後に受診すると明らかに動揺している。「こんな子、診たことがありません。染色体検査では女か男か分からない。詳しい医師が関東にいるので……」


 *


 こうして美咲ちゃんの1歳の誕生日を前にたどり着いたのが、現在の主治医だ。太鼓判を押されて紹介された病院だけに、数々の検査の末に告げられた診断結果は重かった。


 美咲ちゃんには子宮や膣(ちつ)はあるが、卵巣ではなく精巣がある。遺伝学的には男女の区別がはっきりせず、どちらかというと男性に近い。ホルモン治療をすれば月経が始まるけれど、妊娠はできない。合併症で低身長や難聴の症状が出る−−。


 楽観主義の夫(34)はそれまで医師に何を言われようと「美咲に限って」と耳を貸さなかった。でもその日は違った。診察室を出てからも、口を開こうともしなかった。


 約1カ月後、病院で今後の治療方針を話し合った。医師は夫婦に「女の子と男の子のどちらで育てたいですか」と尋ねてきた。動揺がおさまらない夫婦には、親が子どもの性別を選ぶということを不自然に思う余裕もない。「今まで通りに女の子として育てられるなら……」。医師はその答えを待っていたのか「既に女の子として養育している状況などを総合的に考えると、それがいいと思います」と言った。


 それから1カ月もたたないうちに、まず精巣を摘出。陰核を小さくして外陰部をより女性らしくする手術も受けた。今後は経過観察を続け、低身長が著しくなれば成長ホルモン、思春期を迎えるころには女性ホルモンの投与を始めるという治療方針が立てられた。


 *



 いま、美咲ちゃんは多少病気がちながらも女の子として元気に幼稚園に通っている。しかし、友だちと遊ぶ様子を見ていて、敏子さんは気になってきた。かわいらしい服装を好む半面、男言葉を使うことがあり、昆虫が大好きで、人形遊びは嫌い。


 主治医に検査結果を示された時、染色体や性腺の性についての説明は受けたが、心の性がどのように育つのかを聞いた覚えはない。「この子が将来、自分は女性ではないと思うようになり、手術を受けさせた親を恨むことはないのだろうか」。そしてこうも思うようになった。「男でもなく女でもない、生まれてきた体そのものが、この子には最も自然だったのではないか」


 昨秋、インターネット上に性分化疾患の患者や家族が集うサイトを見つけ、悩みを書き込んでみた。「性別を決めるのが早すぎたのではないですか」「子どもの疾患を気遣うばかりに、家族の生活が回らなくなることもあります」。厳しい指摘もあったが、当事者にしか分からない思いや情報に触れ、暗闇から一歩抜け出せた。


 サイトにはその後も社会から孤立した親たちの相談が絶えない。敏子さんは自然と、それに答え、支える立場になった。「あの不安を私は知っているから」【丹野恒一、写真も】=つづく(次回は6日、本人への告知をめぐる課題です)


 ◇性別意識する仕組みは


 人間は自分自身をどのようにして男性(または女性)であると認識するのか。まだ十分ではないが、男性であることを意識するメカニズムは少しずつ解明されてきた。


 受精卵から細胞分裂が進み精巣ができると、そこから男性ホルモンが分泌される。それを脳が浴びることで、成長後に自分を男性と認識したり、男性的な行動を取るようになるという考え方がある。一方、成育環境や体の外見をどう自覚するかも加わり、複合的に決まるという説もある。


 女性と判定された性分化疾患の子から精巣を摘出しても、その前段階で脳が男性ホルモンを多く浴びていれば、意識は男性寄りになることもあるとみられる。性別判定の際にどこまで考慮すべきかが課題となっている。


http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040005000c.htmlから転載 (魚拓)


境界を生きる 性分化疾患/4 告知…娘は命を絶った


 ◇「いつ、どう伝えたら」悩む親、医療現場 重い事実、求められる心のサポート


 一昨年9月、西日本で一人の医学生が自ら命を絶った。自分に性分化疾患があると知って間もなくのことだった。悲しみの中にいる父親が「あの子が生きた証しを残したい」と、一人娘の21年の人生を記者に語った。


 由紀子さん=仮名=は生後6カ月の時、卵巣ヘルニアの疑いで手術を受けた。自分も医師である父正継さん(54)=同=は手術に立ち会い、執刀医の言葉にぼうぜんとした。「卵巣ではなく、精巣のようです」


 検査の結果、染色体や性腺は男性型だが外見や心は女性になる疾患(完全型アンドロゲン不応症)と分かった。夫婦は迷わず女性として育て、本人には「小さい時に卵巣の手術をした。生理はこないかもしれない」とだけ伝えた。


 「出産も結婚も望めない。せめて一人で生きていける力をつけてやりたい」。両親の願いに応え、由紀子さんは医学部に合格。正継さんは「これで体のことを理解できるようになる。医者になるころにすべてを知るのが一番いい」と思った。だが、そうはならなかった。


 大学1年生のクリスマス。由紀子さんは同級生から告白され、交際が始まった。翌春、初めての性交渉がきっかけで生理に似た出血が1週間続き、母親に相談した。正継さんは「昔の診断は間違っていたのではないか」と淡い期待を抱いた。改めて診察を受けようと、娘に初めて病名を伝えた。夏、由紀子さんは「誰にも知られたくない」と、遠くの病院で検査を受けた。


 そこで告げられたのは、親子のわずかな望みをも断ち切る残酷なものだった。


 染色体は男性型の「XY」。子宮や卵巣はなかった。「あの医者、どうしてさらっと『子宮はないね』なんて言えるの?」。そう憤る娘が痛々しかった。


 診断から1カ月後。由紀子さんは下宿の浴室に練炭を持ち込み、自殺した。室内に遺書があった。「体のこと、恋愛のこと、いろんなことがあって……」。携帯電話には自殺直前に彼氏とやりとりしたメールの記録が残っていた。


 由紀子さんは自分の疾患のことを彼氏に打ち明け、距離を置こうと切り出されていたという。まだ若い学生が抱えるには重すぎる事実だったのだろうか。


 娘を失って2年。正継さんは今も「もし過去に戻ってやり直せるなら」と考えてしまう。思春期を迎える前に病気のことを話し、異性との付き合いを制限すべきだった。そのせいで多感な思春期に道を踏み外し、医学生の夢をかなえることも、恋をすることもできなかったかもしれない。「それでも、生きていてほしかった」


     *


 95年から性分化疾患自助グループ「日本半陰陽協会」を主宰する橋本秀雄さん(48)は部分型アンドロゲン不応症で、心身が男にも女にもなりきれない。親からは何も聞かされずに育った。


 自分の中の違和感に苦しんできた橋本さんは32歳の時、覚悟を決めて母親を問いただした。母親は一瞬たじろいだ後、言葉を絞り出すように話し始めた。


 3歳になっても外性器が小さいままで、国立大学病院を受診すると「半陰陽」だと言われた。男性ホルモンを投与したが、効き目はなく、治療をやめてしまった−−。


 それを聞いた橋本さんは「半狂乱になって母をののしった」。自分の体がどう診断され、何をされたのか。病院に問い合わせたが、30年も前のカルテは残っていなかった。大切なことが分からないままになった。


 母親への思いが変わったのは、自助グループを作ってからだ。多くの親たちの苦しみに触れ「母も精いっぱいのことをしたのだろう」と思えるようになったという。


     *


 本人への告知をいつ、どのようにすべきなのか。医療現場も揺れている。医師たちは親に「本人には絶対に黙っていて」と口止めされる一方で、成長後に自分の疾患を知った子からは「なぜもっと早く教えてくれなかったのか」と非難されることも多い。


 東京都内のある専門医は、前の主治医から引き継いだ20歳の女性に「中学生になったころ手術を受けた記憶がある。私には睾丸(こうがん)があって、それを取ったのですか?」とストレートに聞かれたことがある。言葉を選んで説明したつもりだが、女性は言葉に詰まり、ぼろぼろと泣き出した。


 「詳しく知らないまま楽しく暮らせている人もいる。すべてを話すことがいいことなのか」。あれから10年近く、医師にはまだ答えが見つからない。


 大阪府立母子保健総合医療センターの島田憲次医師は「思春期にはある程度話さねばならない。でも、どこまで明かすべきかは常に迷う。悩みは深い」と話す。


 立ち遅れてきた性分化疾患の医療。心のサポートも急務となっている。【丹野恒一】=つづく(次回は性分化疾患とスポーツについてです)

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 ■ことば


 ◇アンドロゲン不応症


 精巣などから分泌されたアンドロゲン(男性ホルモン)は受容体と結びついて初めて外見や心を男性化させる。受容体の一部が機能しない「部分型アンドロゲン不応症」は心身ともに性別があいまいになる。全く機能しない「完全型」は外見上女性のため出生時に気づかず、生理が来ないことなどを機に染色体が男性型であると知る人も多い。


http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040006000c.htmlから転載 (魚拓)

境界を生きる 性分化疾患/ 5 金メダリスト、さらし者に


 ◇陸上の南ア・セメンヤ選手 薬物と偽り性別検査 「染色体、すべてではない」



 8月25日、南アフリカヨハネスブルクのオリバー・タンボ国際空港。到着ロビーはベルリン世界陸上選手権女子八百メートルで優勝したキャスター・セメンヤ選手(18)を励まそうと駆けつけた市民でごった返した。その数、数千人。大歓声に戸惑いながらも、セメンヤ選手はVサインを高く掲げ「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。


 セメンヤ選手が優勝後、並外れた競技能力と筋肉質の体格などから性別を疑われた問題は祖国南アを揺さぶった。政府は「彼女が黒人であり、欧州勢をしのぐ活躍をしたためだ」と声明を出し、国連人権委員会に申し立てる意向も示した。アパルトヘイト(人種隔離)政策を克服した国民が人間の尊厳を侵す問題に敏感に反応したのは当然の成り行きだった。地元紙ザ・タイムズは「彼女の外見を創造したのは神様」との祖母マプシさん(80)の言葉を紹介した。


 だが9月に入り、海外メディアが「医学的検査の結果、男性と女性の生殖器を持つ両性具有であることが分かった」と報道、性分化疾患の疑いを指摘した。南ア陸連が禁止薬物使用(ドーピング)検査だとうその説明をして性別検査を実施していたことも発覚。国際陸連は11月までは最終的な決定をしないとの姿勢で、真相はいまだ定かでない。


    *


 「なぜ彼女は世界のさらし者にされなければならなかったのか」。日本陸連医事委員の難波聡・埼玉医科大産婦人科講師(臨床遺伝学)は「スポーツの世界では繰り返されてきた問題。本人の尊厳のためにも情報がオープンにならないよう徹底されていたはず」と憤る。


 難波医師によると、女性選手に一律の性別検査が行われた最後の五輪は96年のアトランタ大会だった。この時、検査した3387人のうち8人に男性型を示すY染色体があったという。それでも、全員が女子競技への参加を許された。なぜか。


 女子競技では主に性別をめぐる二つのケースが問題になる。一つは男性が女性と偽って出場したり、何らかの事情で女性として育てられ紛れ込んでいる場合。もう一つが性分化疾患だ。メダルはく奪などの処分が下されるのは「偽り」がほとんどで、性分化疾患の場合は必ずしも処分されるわけではない。「染色体は判断材料の一つにはなるが、すべてではない。重要なのは男性ホルモンがどれだけ競技能力に有利に働いているかの判断」という。


 世界陸上のように最高レベルの身体能力を持つ選手が集まる大会では、性分化疾患によって男性ホルモンが強く働いている女子選手が一般社会以上の割合で見つかるのは必然だ。難波医師は「世界の目が集まる場で女性選手が精神的に傷つけられることが繰り返されてはいけない」と話す。


    *


 セメンヤ選手の故郷は南アフリカ北東部にある小さな村だ。「プアレスト・プア」(最貧困地区)として知られ、電気、水道などの整備も進んでいない。親族の一人は「女の子として生まれ、育ててきた。私たちの自慢の子なのに、何が問題なのか」と訴える。


 9月上旬に発売された地元の雑誌「YOU」はセメンヤ選手を特集した。表紙には黒いドレスにネックレスをつけた写真を掲載。本人はインタビューにこう語っている。「私は私であることが誇り」


 海外メディアが「両性具有」と報じた翌日、セメンヤ選手は国内レースの出場を取りやめ、その後は公の場に姿を見せていない。【丹野恒一、ヨハネスブルク高尾具成】=つづく(次回は性別をめぐるさまざまな議論についてです)


http://mainichi.jp/feature/sanko/news/20091115org00m040007000c.htmlから転載 (魚拓)

境界を生きる 性分化疾患/6止 存在、認める社会に


 ◇「男と女」だけなのか 決定にモラトリアム必要 「個性…でも疾患」


「人間を男と女だけに分けるのは時代遅れ」「真ん中の性を認めれば、丸くおさまる」


 日本小児内分泌学会性分化疾患のある新生児の性別を判定するためのガイドラインを策定することが明らかになった先月末以降、インターネット上には性別を男女だけに分けるという大前提に疑問を投げかける書き込みが相次いでいる。


 一見、非現実的にも思えるが、かつて同様の考えを論じた文章が医師や法律家の間に波紋を広げたことがある。日本生命倫理学会初代会長の星野一正・京都大名誉教授が00年に法律雑誌に載せた論文「性は『男と女』に分けられるのか」だ。


 星野氏は日米両国で産婦人科医として数多くの分娩(ぶんべん)に携わり、性分化疾患の新生児にあいまいな性別判定をせざるを得なかった過去の反省に立ち「研究の進歩によって、ヒトを男女に二分して性別を正確に決定する基準を設定しようとすること自体が不可能に近いことが分かってきた」と指摘。そのうえで「男か女かのいずれかの性別のみを記録することを義務づけている現行の法律は即刻改正すべきだ」と言い切った。


 星野氏と親交があった日本半陰陽協会主宰の橋本秀雄さんによれば「男にも女にも違和感を覚えてしまう多くの当事者の実態に即した考え方だったが『アメリカかぶれの机上の空論だ』と一笑に付す学者もいたようだ」。


 この「空論」がすぐに受け入れられるほど社会は柔軟ではないが、患者が置かれた状況がこのままでいいとはいえない。


 性分化疾患性同一性障害がある人の診察経験が豊富な「はりまメンタルクリニック」(東京都)の針間克己院長も、性の男女二元論には懐疑的な立場だ。性分化疾患の患者が自ら感じる性別は、男女半々だったり、7対3だったりする。さらにそれが時々入れ替わる人や、年とともに変わる人もいるという。


 こうした人たちを男性か女性か、明確に分けることはできない。でも社会生活を営むにはどちらかの性別を割り当てる必要がある。そこで針間院長は「性別判定には時間がかかるとの前提に立ち、性別が決まらないモラトリアム(猶予期間)の必要性を社会に訴えることこそが、今医師に求められているのではないか」と提言する。


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 こうした議論は当事者自身の目にはどう映っているのか。


 男性ホルモンの不足で第2次性徴が全く来なかった大学3年生、裕司さん(22)=仮名=は女性と間違えられる外見を「ある意味で自分の個性」と感じつつも、もっと男性らしくなりたいと思い、男性ホルモンの投与を受けている。声が低くなり体毛が濃くなると、今度は予期しなかった喪失感を覚えたという。


 そんな複雑さを抱える裕司さんだが「第三の性があってもいい」「そのままの自分に誇りを持って」との意見には違和感がある。「患者を気遣ってくれているのかもしれない。でも社会は男か女かの区別を前提として動いている。男性として生きたい自分にとって、今の状態は『疾患』以外の何物でもない」


 性分化疾患の患者や家族たちは長い間、孤独な状況に置かれてきた。社会はどう向き合うべきなのか。「まずは存在を知ってほしい」。当事者の多くは訴える。【丹野恒一】=おわり


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 ◆作家・精神科医、帚木蓬生さんに聞く


 ◇「無関心は恥になり、罪になる」


 作家であり、現役の精神科医でもある帚木蓬生(ははきぎほうせい)さん=写真=は昨年、性分化疾患をテーマにした小説「インターセックス」(集英社)を刊行した。このテーマに挑んだ動機や伝えたかったメッセージを聞いた。【聞き手・丹野恒一、写真・渡辺亮一】


 −−なぜこの病気を取り上げたのですか。


 ◆先端医療を手掛ける天才医師の暴走を描いた小説「エンブリオ」の続編テーマとして性転換について調べるうちに、この問題を知りました。資料を集めてみると医師の私でさえ知らないことばかり。これは書かねばならないと思いました。


 −−反響は?


 ◆この疾患を持つ30代と思われる女性からの手紙が衝撃的でした。男性の外性器があり、誰にも知られないように生きてきたけれど、作品を読んで「自分だけではない」と知ったとのこと。母親でさえ気付いていなかったようで、物心がついてからは裸を見せないようにしているそうです。彼女は死ぬまで秘密にしていかねばならないのだろうと思うと、つらくなりました。


 −−医師の立場で思うことは?


 ◆医学の世界で現状を変えていこうという声が大きくなっていかないのは、横のつながりが少ないからでは。そもそも医者というものは薬が効かない病気は初めから存在しないと思いがち。性分化疾患は医療のアキレスけんとも言えます。取り巻く状況は、放っておいたら50年変わらないでしょう。


 −−読者に伝えたかったことは?


 ◆ある登場人物がこう語る場面があります。「無関心はとてつもない恥になり、ついには罪になる」。知らないことはいけないことで、知ろうとしないのは最もいけないことです。


※TB送信先:「半陰陽の苦悩」http://d.hatena.ne.jp/lolitamarippe/20100918